音楽の世界にもう一歩だけ踏み込んでみよう

Life Lyrics

歌詞の本当の意味

BOOM BOOM SATELLITES『LAY YOUR HANDS ON ME』NO MUSIC,NO LIFE?

更新日:

 

今回紹介するアーティストは『BOOM BOOM SATELLITES』

読み方はブンブンサテライツ。
ファンはブンブンと呼んだり、ブンサテと言う人もいます。
音楽誌に書かれるときにはBBSと表記されることも多いですね。

ここからブンブンサテライツの経歴と楽曲を紹介していくのですが、この記事めちゃくちゃ長いです。約25000文字あります。

でも、彼らのことをよく知っている方も、全然知らない方も、できれば最後まで読んでほしいと願っています。
全部読み終わった時に、きっと貴方の心に何か残るものがあると思うので。

 

今回、歌詞を紹介するのはこの曲。

『LAY YOUR HANDS ON ME』

どんなことを歌っているのか、どんな意味があるのか、気になる歌詞の本当の意味は終盤で。
その前にブンブンサテライツのことを詳しく見ていきましょう。

 

メンバーは2人。

ボーカル&ギターの川島道行
主に作詞を担当

中野さんから見た川島道行

川島くんは優しくて、繊細な人。女々しい部分もあるし、でも頑固な一面もあって、揺るがないもの、絶対に譲らないものがある。
自分が格好良いなんて、格好良い自分を見てほしいなんていう感覚とは、全く真逆の人。

 

プログラミング&ベースの中野雅之

川島さんから見た中野雅之

中野は心を使って音楽を奏でる人。そことスキル的な部分のバランス感覚がすごく長けている人だなと思っています。
聴いてくれる人の心をちゃんと思いやった上で、自分の音を発しているんだなとそばで見ていて強く感じますね。

 

ブンブンサテライツの曲を初めて聴いた人は、海外のアーティストと間違えることが多いです。
プロのミュージシャンでも間違えるくらいなんですよ。

孤高のアーティストと呼ばれることも多く、ダンサブルで、独創的で、普遍的。どのジャンルにも分けることのできない多彩な要素が含まれています。
そして、その音楽性はデビュー時からどんどん変化していきます。

紅白に出るようなメジャーなアーティストではありませんが、
音楽関係者からの評価はとんでもなく高く、他のミュージシャンのプロデュース、映画・CM・アニメなどから仕事のオファーが絶えません。

 

そんなブンブンサテライツですが、2017年6月18日をもって正式に活動を終了しました。

「活動終了」って聞きなれない言葉ですよね。
一般的にアーティスト活動を終える時は「引退」や「解散」という言葉が使われますから。

なぜブンブンサテライツは活動終了という言葉が使われたのか?

実はボーカルの川島さんが脳腫瘍を患いアーティスト活動を継続できなくなったためです。
そのため正式にブンブンサテライツは活動に終止符を打ちました。

 

ここからはブンブンサテライツの結成から活動終了までの経歴を見ていきましょう。
川島道行と中野雅之という2人の人生を追っていく中で、人生をどう生きるべきなのか、音楽はどんな役割を果たせるのか、そんなことを考えてみたいと思います。

そして最後に川島さんが命を燃やして書いた歌詞の意味を噛みしめてみましょう。

 

1969年
川島道行 生誕

1969年にボーカルの川島さんが生まれます。
出身は岩手県の盛岡市となっていますが、中学、高校時代は秋田で過ごしました。
本人は説明するのが面倒なので「岩手出身」とだけ言って済ませるらしいです(笑)

音楽に興味を抱いたのは14歳の頃。

川島

14歳くらいのときに、近所の友達にイギリスのパンクバンドとかをいっぱい教えてもらって、僕もこんな音楽をやりたいなと思ったのがきっかけ

そしてキリング・ジョーク、ウィラード、エコーズなどのコピーバンドを始めます。
この頃はベースを担当していました。

初めて見たライブはなんと山瀬まみさんと一緒。偶然にも中学校(秋田市立城南中学校)の同級生だったんですね。
でも演奏していたバンドには不満だったようです(笑)

高校生になると、好きだったミュージシャンたちがエレクトロニクスを使うようになったので、それを真似して安いリズムマシーンなどの機材を使い始めました。

高校の頃に組んでいたバンドではギターを担当。
バンドにギタリストがいなかったので「じゃあ僕がやろう」ってことでベースを売ってギターを買いました。

 

ところで、ブンブンサテライツの歌詞はすべて英語なのですが、なぜ日本語で書かないのでしょう?作詞担当の川島さんは東北生まれの生粋の日本人なのに。

その理由について川島さんはこう話しています。

川島

高校生の頃にデヴィッド・ボウイを聴いて、英詩ってものにすごくイメージを喚起させられたんです。
その頃から欧米の音楽を聴いて育ってきたので、作るときに英語で歌うのはすごく自然なことで。あとアメリカのビートニクの詩人の方たちにも影響を受けているので。

 

1971年
中野雅之 生誕

出身は神奈川県。
デビューするまではずっと実家で暮らしていました。

父が音楽好きでレコードのコレクターだったため、家ではいつも音楽が鳴っている環境でした。幼少期はクラシックやジャズ、映画音楽などを聴いて育ちます。

特別な音楽教育は受けていませんでしたが、エレクトロミュージックへの目覚めは早く、
初めて買った楽器はギターでもピアノでもなくシンセサイザー。

12~13歳で作曲を始めました。
YMOやクラフトワークのようなテクノの真似ごとをしていたみたいです。当時の小中学生としてはかなり珍しいですね。

その後、友達とバンドを組んでパンクやグランジみたいなことをしていました。

高校生になるとINXSのコピーバンドを始めます。
ダンサブルなロックを始めたのはこの時期からでした。

中野

40代にどうなるとか、考えたことなかったですね。10代のときはとにかくバンドのことしか頭にありませんでした。

 

1990年
大学で知り合い、バンドを結成

2人は武蔵境にある大学で同級生として出会います。

大学も学部も同じ、しかも学籍番号まで近かったこともあり、入学してすぐのオリエンテーションの時には話をする間柄になっていました。

2人とも日本でテクノが流行る何年も前からありとあらゆる音楽を聴いていたレコードマニア。川島さんが一人暮らししている家にお互いのコレクションを持ち寄って聴き合って「これいいよね!」って感じの会話で盛り上がっていました。
2人は音楽を通じて仲良くなっていったんですね。

川島さんはこの頃、すでにバンドを結成しています。
バンド名はBOOM BOOM SATELLITES

中野

バンド名は川島くんがすごく好きなSigue Sigue Sputnikっていうイギリスのバンドの曲名から取ったんですよ。僕が入る前から川島くんがバンド名だけは決めてたんだよね、メンバーは川島くん以外に誰もいなかったんだけど(笑)

彼は当時、打ち込みの機材がうまく扱えなくて、僕が得意だったから手伝いで加入したんです。

 

こうしてブンブンサテライツに中野さんが加入。
川島さんがボーカル、中野さんがベース、他のメンバーは出たり入ったり。
多い時は6人いたこともありましたが、徐々に2人だけで曲を作るようになります。

この頃の川島さんはめちゃくちゃモテていたそうです。

中野

生まれながらにロックスターっぽい雰囲気がある人で、色気があるので歩いているだけですごく声をかけられるんですよ。大学のときもすごくモテて、歩いているだけで女の子がみんな振り返るような感じの人だった。

川島さんのことを知っている人は、男女問わず「カッコイイ人・すごくモテる」と異口同音に言います。

でも川島さんはツイッターでモテたことがないとファンに答えているんですよね。たぶん謙遜しているわけじゃなくて、本人だけはモテてる自覚が本当にないみたいなんです。

モテたいとか、目立ちたいという気持ちがない人なので、女性からの目線にも気づかないのかもしれませんね。
それがまたカッコイイっていう好循環。

 

 

大学時代からバンド活動は精力的に行っていました。
曲を作って、週に一回はライブハウスで演奏。高円寺、横浜、浜松町などにある小さなライブハウスに出ていたそうです。

しかしお客さんはゼロ
音楽性が異色だったので、お客が入っている日でも興味を持ってもらえませんでした。
他のバンド目当てに来た女の子たちにはそっぽを向かれ、演奏中に寝ているお客さんもいたそうです。

売れる気配のない毎日でも、とても楽しかったと中野さんは語っています。

中野

学生だから無責任で何でもサンプリングするし、夜な夜なレンタルビデオ屋さんに行って何かの映画を借りてきたらその中から何個かサンプルを拾うっていうのを、学校に行かないで一日中やってたりとか(笑)
ブンブンサテライツを初めたばかりの頃は何やってもすごく面白かった。

 

その頃ヨーロッパでは、人気DJになっていた田中フミヤや石野卓球、革新的なクリエイターとして注目されていたKEN ISHIIらが活躍していて、
2人も「僕らの音楽も世界で聴かれるべき」と考えるようになります。

中野

この頃のクラブミュージックは国境がないというか、グローバルな言葉としての機能があったように感じていたので、僕らもイギリス・ベルギー・ドイツあたりのレーベルにデモテープを作っては送っていたんですよね。

レコードのジャケットの裏に書いてあるFAX番号と電話番号と住所をチェックして、片っ端から送ってたっていうだけなんですけどね。

 

しかしなかなか声はかからず。
鳴かず飛ばずの状況だったので、お金を稼ぐためにアルバイトもしていました。

バイト先はジャズバー。もともとは中野さんがよく通っていたお店でした。
ここに川島さんを連れて行くと「ここでバイトしようかな」と言って働き始めます。
大学を卒業してからは中野さんもここで働くようになりました。そのときには川島さんは社員になっていたそうです。

吉祥寺の老舗ジャズバー『サムタイム』
出典:Twitter @BBS_nakano

2人とも音楽以外の道で生きていくイメージが持てなかったので、卒業後も現状維持的にここで働いていました。フリーターみたいなものですね。

卒業して数か月後、
デモテープを送っていたR&Sレコーズから「すぐにリリースするから音源が欲しい」と連絡がきます。

ちょうどジャズバーで仕事をしているときに連絡が入ったので、「じゃあ今週でバイト辞めます」とその場で決断しました。

R&SレコーズはKEN ISHIIも契約していたベルギーの名門レーベル。
ブンブンサテライツがR&Sレコーズに即決したのは、大好きだったKEN ISHIIがいたからでした。

 

1997年
川島道行の脳に悪性腫瘍が発覚

ヨーロッパのレコード会社と契約し、いよいよプロのミュージシャンとして人生が始まった!!と思った矢先。

川島さんの脳に悪性の腫瘍が見つかります。脳にできた癌(がん)です。
川島さんはまだ20代でした。

 

この時ブンブンサテライツの最初の仕事として、フェスへの出演が予定されていました。

R&Sレコーズの社長はそのフェスに報道関係者やツアーエージェントを呼び込み、プロモーションをする作戦を用意していたんです。
そこで評価されればその後の仕事も決まってくるというわけです。ブンブンサテライツにとっては成功を掴むための勝負のステージ。

しかし最悪のタイミングで癌の発見…

命がなければ音楽はできません。
音楽のことはひとまず置いておいて、腫瘍を摘出するために開頭手術が行われました。

脳腫瘍の摘出手術を行った場合、手術後に身体がどんな状態になるのかは誰にもわかりません。神のみぞ知るです。
腫瘍ができた場所が悪ければ、手術後に半身不随になったり、言語障害が起きたり、時間や空間の感覚がなくなったり、精神が不安定になったり、音感がなくなることもあります。

中野さんは脳腫瘍について調べれば調べるほど、「数か月後に本当にライブなんてできるのか?」という気持ちになったそうです。

 

そして、手術の結果は…

成功。大きな後遺症も起こりませんでした。

しかも退院してから一週間ほどでベルギーまで行って、予定されていたライブを行いました。そしてライブは大成功をおさめます。

退院してたった一週間でステージに立ち、ライブを楽しんでいる川島さんを見て中野さんは「なんかこの人すごいな」と思ったそうです。

 

ただ川島さんが泣き言を一切言わなかったわけではありません。
やっぱり弱音を吐くこともあって、それが原因でよく喧嘩になりました。

中野

「病気なんだ」なんてことを理由に持ち出すから。そんな死ぬだ生きるだって話を持ち出してこられても「別に今日は生きてんじゃねぇか」となっちゃうんです。「今日、何かちゃんとやれてないことがあることに、生きる死ぬってのを簡単に持ち出してこないでくれよ」みたいなね。

でも、そこから僕は川島くんの生涯を通じて、人生観だとか生死観だとかそういうことを、学んでいくことになっていくんです。

 

 

脳腫瘍が見つかったのは1997年ですが、実は2013年まで世間には公表されませんでした。

ソニーミュージックでブンブンサテライツのアシスタントをしていた真保沙知さんは当時のことをこう語っています。

真保

彼らは音楽性の高さに加えてすごくルックスも良かったら、周囲の大きな期待を背負っていました。
スタッフ側としてはまだキャリアが浅いその時期にバンドに暗い印象を付けたくないということで、当時はひた隠しにするしかなかったんです。
でも、メンバー自身からすれば、その苦悩を口にすることができずとても辛かったと思います。
その頃、彼らが契約していたアメリカのレーベルからも「もっとアップリフティングなトラックを作ったらどうだ?」みたいなことをよく言われていたんですよ。
彼らにしてみればそんな状況じゃなくて…。でもその理由を外には言えなかった

 

1997年
1stminiアルバム『JOYRIDE』

『JOYRIDE』

ヨーロッパではR&Sレコーズから、日本ではR&Sレコーズと契約をしていたソニーからリリースされました。

3rdシングル『Joyride』はイギリスの週間チャートで1位を獲得。

NME誌などの音楽誌から絶賛されます。
イギリスのメロディー・メーカー誌は「The Chemical Brothers、The Prodigy以来の衝撃」と報じ、イギリスのニューミュージカルエクスプレス誌は「世界中どころか宇宙の中でも例をみない音」と衝撃を伝えています。

 

中野

デビューのときは本当に楽しかったですよ。まずそこでひとつの大きな夢を叶えることができたし。
僕はせっかく作った音楽なんだから、より多くの人に聴いてもらいたい思いが強く、海外でもリリースしてみたかったんです。
今とは状況や背景が違い、いろいろな意味でチャレンジングなことでしたけど、その分喜びも大きく、すごく嬉しかったですね。

 

1998年
1stアルバム『OUT LOUD』

『PUSH EJECT』

私が初めてブンブンサテライツを知ったのは、たまたまテレビでこのMVを見た時でした。
カッコ良すぎて呆然と見ていたらアーティストの名前を見逃してしまったんですよね(笑)

こいつらは誰だ?って探して、海外で活躍してるこんな前衛的な日本人アーティストがいたんだと驚いたのをよく覚えています。

 

ライブは超大物ミュージシャンたちと共に精力的に行いました。

Born Slippy』が大ヒット中のアンダーワールドとツアーをしたり、オール・セインツと同じステージに立ったり、モービーと全米ツアーをしたり。ヨーロッパの大型フェスにも多数出演します。

華々しいデビューを飾ったブンブンサテライツでしたが、川島さんは毎日必死だっと語っています。

川島

自信はなかったんです。R&Sと契約できたのも意外と言えば意外でした。そこまでうまく行くとは思っていかったです。

必死でした。毎回ステージに上がったらとにかくベストを尽くして帰ってくる。ベスト以上のものでやらないと、とてもすごせない日々でした。すごく怖かったです。どんなに苦しい状況でも砂漠の真ん中に行ってもベストを尽くして帰ろうっていう毎日でした。
でも今になって思えばよい経験でした。日本人がステージに出てきてお客さんが「何こいつら?」となっているのをかっさらっていくのはすごく気持ち良かったですね。

中野

自分が音楽を作りながら生きていくにはどういう方法があるのかっていうことをこの頃はすごく考えていました。

 

1999年
脳腫瘍 再発

ブンブンサテライツの拠点は東京。
週末に海外のフェスに出たりライブをやったりというのが普通になってくると、東京と海外を行ったり来たりするのが現実的ではなくなっていきました。

そこでロンドンのイーストエンドにプライベートスタジオを構え、拠点を東京から移しました。

「さあ、ここから本格的にヨーロッパで活動が始まるぞ!」と思った矢先…

定期健診で腫瘍の再発が見つかります。
またもや最悪のタイミング。

川島さんは再び開頭手術。そして放射線治療も行いました。

前回とは違って今回は入院、手術、療養に長期間を要し、バンド活動は半年間以上ストップ。

さらに中野さんは同じ時期に親友が亡くなるという不幸も重なり、心労はピークに達しました。
そのためロンドンを離れて日本に戻っていたそうです。

唯一良かったことは、
川島さんの治療が順調に進んでドクターからは「再び発症する可能性は低いので、あまり考えなくてもいいですよ」と説明を受けたことでした。

 

この頃から2人の関係性は大きく変わっていきます。

出会った当初は川島さんがお兄さん風を吹かせているようなところがありました。
同級生だけど川島さんが中野さんより2歳年上。性格的にも川島さんはおおらかで、人を包み込むような優しさがあります。
一方、中野さんは求道者タイプ。完璧主義で論理的。理想のために全身全霊を注ぎ、妥協を許さない性格です。

2度目の発症があったこの時期に、中野さんが主導して制作をするようになってからは「川島さんの才能をいかに中野さんがプロデュースするか」という形になっていきました。
簡単に言えば中野さんが川島さんのケツを叩いて頑張らせる役割になったんですね(笑)

本来まったく異なる性格だった2人ですが、年を重ねるごとに人生と音楽への価値観を深く共有するようになっていきます。
それはブンブンサテライツというバンドの性格そのものになっていきました。

 

2001年
2ndアルバム『UMBRA』

『FOGBOUND』

前作はアルバム全体を通してイケイケでしたが、この作品ではシリアスに変化。
歌詞もとてもネガティブなものになっています。

中野

川島くんの心情を吐露する場所として作った作品。
上を向いて歩こうみたいなものは僕は川島君にやらせることができなかったんです。

この頃の自分の心情はやっぱり激しかったと思うし、いろんなモノに対する憤りがあったと思うんですね。それがサウンドに如実に表れている。

 

ネガティブになったのは病気のことだけが原因ではありません。
音楽シーンにも変化が起きていました。

90年代にケミカルブラザーズ、プロディジー、ファットボーイスリムなどがけん引したヨーロッパ発のビッグビートブームは、2000年代に入ると下火になっていきます。アメリカでは根付くことさえありませんでした。

ダンスミュージックを作っていたブンブンサテライツはその状況にいら立ちを覚えていました。

「こんな一瞬で消えてしまう儚いエンターテイメントではなく、もっと人の人生に深く刺さっていくものを作りたい」

より深くそんな考えを持つようになります。

ブンブンサテライツの2人は自分たちの音楽を「レベルミュージック」だと言います。
つまり反抗の音楽

刹那的に消費されるだけの今の音楽や、ただの娯楽として軽い歌詞を音に乗せるようなことは、自分たちはやらないと。
トレンドやシーンに媚びず、普遍的な価値のあるものを創造するんだという姿勢です。

 

2002年
3rdアルバム『PHOTON』

『BLINK』

前作を引き継ぎながらも、より内面的、ダークな印象。

川島

人がどこから来てどこへ行くのかというのが歌詞のテーマ。
ある日に命に終わりが突然やってくるものだっていうことが僕の中で実感できた時期があったんです。

 

この時期は、このままロンドンにいるべきなのか悩んでいました。
当時は海外にいながら日本でプロモーションを行うのは難しく、また病気のこともあってロンドンにいるより東京にいた方が安心できるだろうと。

ロンドンの生活に様々な意味で疲れていたようです。

そして、2004年からは再び東京に戻ることになります。

 

2005年
4thアルバム『FULL OF ELEVATING PLEASURES』

『DIVE FOR YOU』

東京に自前のスタジオを構えて制作したアルバム。

川島

やっぱり僕らの作品は遠目で見られがち。別に難解ではないんですけど、難解な印象を持たれていたところがあって。
じゃあもっと触れる作品、手にとれるモノにしようっていうのが大きな変換だったと思いますね。
聴き手を巻き込もうというか、ウチらから手を差し伸べるような、ひとつのモノをみんなで触れるっていう姿勢を取って、大幅にガラッと分かりやすく転換させた。

中野

ロックンロールアルバムです

 

2006年
5thアルバム『ON』

『KICK IT OUT』

ダンスミュージックの包容力、優しさ、連帯感とロックンロールのリアルさ、実生活に対するメッセージ。それを融合した作品。

川島

『KICK IT OUT』は結構苦労したんですよ。
破壊衝動を全面に押し出した言葉で、なおかつ耳にキャッチーなフレーズっていうものをなかなか出せなくて。いっぱい書き直しましたね。
でも新しい自分が書いたリリック、フレーズぽくて、気に入ってるんですよ。
あんまり真理のないっていうか、結論もないし、正しくもない。だけどその衝動だけが最後にロックンロールだなと感じさせる。

歌うのは気持ち良かったですね。
つまんないこととか、納得がいかないとか、理不尽にただイライラしているっていうだけの状態を音楽に言葉として乗せてるのを歌うことは、なかなか出来ないですからね。

作詞をする上で一番大事にしていたのは「バンドの意志を伝えるための言葉、フレーズ選びではなくて、音楽を伝えるためのボーカルだ」っていうことを一番大事にしたくて。

 

 

2006年には川島さんが結婚します。
お相手はなんと女優の須藤理沙さん。2007年と2011年には女の子が生まれています。

しかし川島さんは結婚後も特に音楽生活が変わるわけではなく、家族よりも中野さんと長い時間を過ごしていました。
それだけ音楽に没頭していたんですね。

 

2007年
6thアルバム『EXPOSED』

『EASY ACTION』

キャッチーなメロディラインを重視するのは前作の流れと同様。
今作は4つ打ち、攻撃的でパンクやロックの要素が大きい作品となっています。

より聞き手に届きやすい形を目指したことで、ファン層の間口を広げました。

中野

昔はポップであることを嫌うというか、距離を置こうとするというか、そういう美学みたいなモノってあったんだけど、
今はむしろポップであることこそが格好良いっていう感じがします。多分それは文化的なサイクルだと思う。

川島

『FULL OF ELEVATING PLEASURES』からの流れの中で、楽曲として歌モノが腰を据えてきている、それの行き着いたところが『EASY ACTION』だったりする

川島さんは時々全身タイツを着ますね(笑)

 

 

2009年にはブンブンサテライツの人気曲『BACK ON MY FEET』がシングルでリリースされます。

この映像で鳥肌モノのドラムを叩いているのは、ライブでブンブンサテライツのサポートをしている天才ドラマーの福田洋子さん。

川島

僕はいつも主軸をひとつ決めてからいろんなストーリーを書いていくんですけど、戦いとか戦争とか破壊とか、そういう退廃的な言葉がバァ~って出てきて。その中でも感じられるロマンチシズムだったりを書いてみようと思ったんです。
で、『BACK ON MY FEET』について語ると、まず女の子に勝る存在はないと思うんですよね。結構、神様に近いっていうか。何でも出来るっていう意味じゃなくてね。人類を増やせるのは女の子だし、男の人は女の人をすごく強く意識しがちだと思うし。とどのつまり、決定権は女の人にあるっていう。この先も人類が増えていくことを仮定した場合。そう考えると、いつも隣に神様がいる感じがして。何でも出来る訳じゃないけど、子供を生んで育ててくれる。それは凄いこと。
ただ、その反面で人は地球を終わらせることもできる。それは別に偉い人にならなくても、ここで飲んだ2本の水が100年後の地球を滅ぼす理由になるかもしれないし。
そのアンバランス感を書こうと思って。

 

2010年
7thアルバム『TO THE LOVELESS』

『STAY』

音楽の世界では「CDが売れなくなった」「音楽不況」などと言われ、YouTubeで無料で聴けたり、iTunesで低品質で低価格な曲が配信されるようになりました。
そして何よりアーティストが提供する作品の質が大きく落ちてきていました。

ブンブンサテライツの2人はそんな状況に強い危機感を持ちます。

中野

アメリカとかでは配信が主流になっていて、ポップミュージックのクオリティが全体的に落ちてきていて。アメリカではそういうことが昔はなかった。どんなに水っぽいポップスでも音楽的なクオリティが保たれていたんだけど、それが失われてきているなと。

川島

すごく触発されるようなミュージックシーンだとかアーティストというモノの存在を感じていなくて。なおかつ、ひとつひとつの物事の向こう側に人がいるっていうことを感じられなくなっている。
僕らはそこに挑もうと思ったんですよね。音楽としてもパッケージとしてもすごく情念の込めたモノを届けたかった。

中野

じっくり音楽と向き合う時間というのが良いものなんだっていう部分にもう一度気が付いてほしい。70分のボリュームがあって、それを最初から最後まで聴く時間を取るというのは、今の時代の価値観で言ったらとてもとても贅沢なことで。おいそれとそういう時間を作れない人がとても多いと思うんだけど、それに見合った価値がこのアルバムにはあると思うし、すべてを聴き終えて日常に戻るときに何か小さな革命みたいなモノがあればいいなと願っています。

 

2013年
8thアルバム『EMBRACE』

『NINE』

この作品の制作中に2011年の東日本大震災が発生します。
川島さんは東北の出身で、思い出の場所がすっかり変わってしまった現実を目の当たりにします。

多くのクリエイターと同様に、ブンブンサテライツもまた自分たちの仕事に一体どんな意味があるのか、もう一度足元から見つめ直さざるを得ませんでした。

中野

被災地の状況に目をやれば、
音楽にどんな機能性があるのか?必要な事はこんな事では無いのではないか?ずっとレコーディングスタジオにいて良いはずが無い!?寄付だけしてれば良いのか?現場に行ったから良い事なのか??そもそも自分は人の力になろうと思って音楽を作ってきたじゃないか!音楽を作っていて何がいけないんだ!!などと考えてしまう日々。

そして、紆余曲折あった結果、夏フェスに数本出演するのですが、そこで出会うオーディエンス、沢山のファン達に僕らは結局救われてしまうのです。
ステージの上に立つと感じるんです。人が音楽に何を求めているのかを、痛い程体感してしまうんですね。そのバイブレーションって本当に凄い。全身がビリビリするんです。
その時、エンターテイメントとしての音楽の大切さを再認識して、短い夏を終えました。

川島

音楽の役割のひとつとして、聴いてくれた人にいい影響を及ぼすものであってほしい、よりよい未来をつかむきっかけであってほしいという思いがあって。
それは以前に比べても、より強く意識するようになったと思います。

 

2012年12月28日
3度目の腫瘍発症

 

『EMBRACE』が発表される数日前に、川島さんに3度目の脳腫瘍発症。

ツアーが始まる前に念のために受けた定期検診で発覚しました。

前回は1999年。それから10年以上、表面的には大きな問題がなく過ごせていたのですが、ここに来てまさかの再発でした。

 

ファンやマスコミにはこれまで脳腫瘍を患っていたことは隠されていたのですが、年明けから予定していたツアーのキャンセルをすることもあって、初めて公表。
そんな大きな病気を抱えて今まで活動していたことを関係者以外は誰も知らなかったので衝撃的でした。

 

川島

だいたい先生の様子でわかるんですよね、「これは何か言われるな」と。
そこで、「これから悪くなる可能性も高いから、なるべく早く手術をしなくてはいけない」と言われて。

せっかくこれだけいいアルバムができて、これだけ長い全国ツアーをやるのもすごくひさしぶりだったので、最初はどうしても行きたかったんですよ。「命に代えても」って言うと大袈裟に聞こえるかもしれないけど。いろいろと可能性を探ってもらったんですけど、やっぱり「どうしても急がないと」ってことで。「本当に命に代えてもやりたいなら止めませんが」っていうことだったんですけど、そのときにマネージャーも一緒にいて「ツアーをキャンセルしてでも治療を優先させてください」と言われて。本当に……苦渋の決断でしたね。本当につらかったです。

 

そして、手術は無事に終了します。

 

手術後の川島さんのツイートです。

脳の一部を摘出すると体に障害が残る可能性だけでなく、心までも失う可能性があります。
手術をしたことによって自分が自分ではなくなるかもしれません。
それはものすごい恐怖だと思います。

このツイートからは、そんな恐怖心があったことが伺えます。
しかし神様は川島さんに必要なものをちゃんと残してくれたんですね。

 

ここから川島さんは武道館ライブに向けて気合で回復していき、5月3日の武道館ライブを成功させました。

川島

本当に四苦八苦してたどり着いた感じでしたね。自分が闘わなきゃいけないものが音楽を奏でるということじゃない部分に大きな比重があったから。
ああやってみんなに迎え入れられたこと、待っていてくれた人たちを前に音楽を伝えることができたことは、自分にとっては本当に幸せなことでしたし、これからの自分が何をしたいのかということを考えさせられる大切な日にもなりました。

川島

脳腫瘍ってちょっと派手な病名だと思うんですよね。
それを3回もしている人間が、こうしてまだ歌いたいと思ってステージに立っているという、そういう“強さ”を見せることも、僕はミュージシャンの果たす役割の1つだと思うんです。若くして死ぬことだけがロックスターじゃないんだって。
生き続けていくことや、やり続けていくことっていうのも、今となってはミュージシャンにとって1つの思想であったりメッセージであったりするんじゃないかって。それを全力で体現できれば、自分がここまでミュージシャンを15年続けてきた甲斐があったなって思えるし。
それを観る人が受け止めてくれて、何か勇気や希望のようなものになってくれるのであればけっこうつらい病気だし大変な手術だったりもしましたけど、逆にすごくうれしいです。病気になったこともありがたいというか。
きっと誰かが僕を選んで、そういう“強さ”を表現する役割を与えたんじゃないかって思えるので。

川島

本来の自分はとても弱くて、隙あらばいつでも逃げようと思っているような男なんです。
でもいざ音楽をやる立場になった場合、リスナーに対して何か希望となるようなものを表現したいと思ってきた。

曲とメロディがあって、どんなリリックを書いたらいいかわからないなっていうときは頭で考えているときで、本当に自分が思っている言葉が出てくるときというのはみぞおちあたりから出てくる感じなんですよ。
それは例えば「EMBRACE」では「SNOW」だったり、前のアルバムだったら「STAY」だったりが、そういう曲になったと思うんですけど。

ファンにはいつも強い姿を見せていた川島さんですが、彼も人間です。
弱気になることもありました。

武道館の本番2日前に川島さんはずっと裏方として支えてきたスタッフの真保さんに電話でこんなことを言いました。
「武道館で辞めるって言いたい。解散ライブにしたい」

これを聞いた真保さんは「ふざけんじゃねえ!!」と一喝。※真保さんは女性です。
復帰を祈って、待っててくれたファンにようやくお披露目できる場で辞めますなんてよく言えるな、失礼過ぎると怒ったそうです。

また中野さんはいつも川島さんにこう言っていました。

「体調が悪いからって手を抜いてんじゃねえよ」
「あと何曲作れるか分からないんだぞ!」
「お前、もう死ぬんだぞ!」

親族でも言えないようなきつい言葉ですが、中野さんが川島さんをミュージシャンとしてまっとうさせるための深い愛のこもった言葉。
生きることそのものの価値観を共有してきた2人の間だけで通じ合える叱咤激励でした。

おおやけにはされていませんが、きっと川島さんの奥さんやご家族から勇気づけられる言葉もあったと思います。

川島さんはものすごく強い人ですが、決して一人で苦難の人生を乗り越えてきたわけではなかったようです。

 

 

3度目の発症以来、ずっと抗がん剤治療も受けていました。

 

この頃、中野さんの誘いで2人だけで伊勢神宮へ参拝に行っています。
40代の男の2人旅(笑)

初めて2人で旅に出掛けたそうですが、川島さんは「すごく楽しかった。意外なことに」と言っていました。

正装してお祓い。
引用元:BOOM BOOM SATELLITES 公式ブログ

 

2014年3月
4度目の発症

前回の発症から約1年半後。再び。

主治医から余命2年の宣告を受けます。
そして、こう言われました。

体を自由に動かすことは難しくなり音楽活動も辞めざるを得ないが、延命のために手術をするか、
寿命は短くなるが、死ぬまでの体が自由に動く時間を少しでも長くとるために手術をしないか。
どちらを選びますか?

川島さんは迷わず後者を選びます。

川島

僕の中では、最初に再発を告げられたときから、元気に動ける時間をなるべく長く取って音楽をやりたいっていう意志は固まっていました。

そして医師との面談の後、まっすぐにスタジオに行きました。

 

川島

2年くらいでどうしても死んでしまうと言われたときに、やっぱり今作っているものを最後までやりたいなって。そうじゃないと、ここまで僕が生きてきたことがすごく中途半端なままで終わってしまうと思ったんです。
中野やスタッフとか、途中まで関わってくれた人たちに申し訳が立たないまま死んでしまうのは心残りだし、待ってくれている人もいるから、どうせ死ぬんだったらちゃんと仕上げたいと思いました。

中野

「どうしたい?」って川島くんに訊いたら、「アルバムを作りたいしライブもやりたい」って言うんです。
だから、1日でも早く歌詞を完成させて歌を録音してしまおうと。「それができたら、あとは全部僕がやるから」って言って、僕も腹をくくりなおしてましたね。

川島

アルバムの制作をスタートさせた直後に再発の告知をされたんですが、それでも僕はどうしてもこのアルバムの制作に戻りたくて。
途中で精神のバランスを崩すこともあったんですけど、それも1日の中の数分で、あとは作品を仕上げることに夢中になっていたから。この世から去る前に自分に何が残せるのか、何を伝えることができるか。それだけを考えてましたね。

中野

手が止まったときのほうが怖いんですよ。手が止まると、不安と恐怖に支配されてしまう。
音楽を作ることで、なんとか精神のバランスを取っていた感じでした。

 

ものすごくシリアスな状況。傍目からすると冗談も言えないような日々。

でも、川島さんは天然なのでこんなツイートもしていました。

中野

笑って過ごしてたよね

川島

そうだね、基本的には笑ってる。
僕は病気になるたびに、諦めない姿勢とか生き抜く佇まいを見せられる立場にいて、それを見せていきたいと思うから。そのために、まずは自分がしっかり立って明るくしなきゃいけないというのは、病人の役目だくらいに思ってるんですよ。

中野

このバンドで4回もそういう経験して、なんか変な言い方かもしれないけど、鍛えられたところがあると思う。4回も脳腫瘍やって生きてる人いないからね。なんかちょっと変態っぽいよ。

川島

ははは、そうだね(笑)
だから、この人生経験が僕の音楽制作に活きてないわけではない。言葉を操る人として必ず活かされていると思うんですね。そういう意味では、こういう経験もポジティブな側面でしかないのかな。あまりヒロイックな気持ちもなければ、感傷的な気持ちもないですし。

笑いって人を救うのかもしれませんね。

また2人は治療を完全に諦めたわけではありませんでした。

手術はできなくなったものの、もしかしたら放射線治療(BNCT)で治せるかもしれないと分かります。
ただそれは治験段階のもので、世界で8人しか症例がありませんでした。

それでも川島さんは迷いなくその治療に賭けます。

川島

(迷いは)なかったですね

中野

いろんなリスクがあるから、僕は嫌でしたけどね。でも、選択肢が他にないから。

7月下旬に放射線治療を受けて、数か月の経過観察。
その結果、腫瘍の拡大を防ぐ事に成功しました。完治したわけではありませんでしたが、小康状態に持ち込めたのです。

基本的には再発する病気なので中野さんは楽観視していませんでしたが、川島さんはこれで治ったんだと自分に言い聞かせているところがありました。
治らないものとして捉えるのではなく、絶対に治るものだとして捉えて生きていました。

川島

自分の人生ってなんだったのかなって振り返ると、主に音楽を作ってライブをやるってことだった。
しかもこれからもずっと音楽をやっていこうと思ってた矢先にそんなことになったから、少しでも音楽活動をまっとうして、1個でも多くの作品を作って周りの人にありがとうと言って死ぬことを選びたいと思ったんです。
ドラマみたいに「あと余命2年ですよ」って宣告されて、ショックを受けて涙を流すとかそういう感じじゃないんですよ。
なんかスッと背筋が伸びて「あとは何をしようかな」って考えてた。
俺はちょっと特殊な経験をしたけど、こうやってピンピンしてるからさ、話せることは話して、「こんな人もいるんだ」くらいにみんなに知ってもらえたら面白いなっていうか。

川島

普段黙って座ってても、自分の横には“死ぬ”っていう黒い溝がドーンとあって、ちょっと気を抜くとストンと落ちてしまうんです。
そんな不安を音楽で伝えても聴く人からしたらなんのことやらだと思うし、葛藤を歌にしてもなんのために音楽をやってるのかってことが自分でもわからなくなるんですよ。
希望のある明日、そしてあさってを迎えられるような前向きな気持ちが歌詞になってる。まあそこまで深く考えてるわけじゃないけども、そういう姿勢は出てると思うな。

中野

生死を彷徨うような状態で、髪の毛も抜け落ちちゃって、カツラと帽子でライブをやってのけたことがあったんですよ。
こっちはヒヤヒヤですよね。放射線治療をしていたので「そんな状態で出来るのかな? 頑張れるのかな? 体調に変化とかないのかな?」って。
ちょくちょくそういうことがある訳で、それを川島くんはしれっとやってのける。すごく辛い想いとかしているはずなんだけど、そういうことに対して不平不満とか言わなくて。

 

中野

川島君は本当にタフだったし、絶対に諦めない人だったし、苦痛にもよく耐えていた。検査ひとつとっても、話を聞いただけで縮み上がるようなことを毎日平気でやっていたんですよ。
でも普段は笑顔を絶やさなかった。

この頃は畏敬の念を抱くようなことが多かった。

 

 

2015年
9thアルバム『SHINE LIKE A BILLION SUNS』

『A HANDRED SUNS』

中野

僕たちは音楽と人生をセットにして生きてきて、人生を切り売りしながらそのときに見いだしたいものを作ろうと思って取り組んできました。だから、このアルバムも僕たちにとってはリアルなんです。

自分たちが救われたい気持ちとか、希望が欲しかったりとか……自然とそういうものが出てると思います。ちょっと強引でも前に進んでいこうっていうロックバンドのアジテーションが、このアルバムには入っていると思う。

川島

自分の生きた証が音楽として残せる。これは絶対やりきろうと思っていました。

自分の人生を振り返るとほぼ音楽を作ってアーティスト活動をしてきたんですよね。おそらく死んでいくときも、アーティストである川島道行として死んでいくであろうと思ったんですよ。

これは僕のエゴというか、願望なんです。

川島

自分が音楽を残していくということ。それ自体がメッセージであるんじゃないかと思った。
なかなか厳しい時間も多かったですけど……その中でも良い楽曲が残せたと思っています。

川島

僕は、家族かバンドかというくらいシンプルな人生を送ってきたので二者択一でした。
これまで音楽を続けてきて、より多くの時間を中野と過ごしてきているし、ここで1つの責任を果たし、自分の気持ちを全うするのが自分らしい人生じゃないかと思ったので、あまり迷うことはありませんでした。

 

 

2015年7月
5度目の発症

前回の発症から1年と数か月後。5度目の発症

 

中野

これが僕らの最後の作品になる……そう意識したのは夏ですね。
それは川島くんと話し合って決めたというよりは、彼の脳のMRIを見て、主治医の話を聞いて。
去年の夏、僕らは様々なフェスやイベントに出演していたんだけど、そのときから僕は川島くんの変化を少しづつ感じていたんですよ。そして、先生からその証拠を見せつけられた。
先生の話では当時の川島くんの状態というのは異常……、ライヴがやれている、日常生活を送れていること自体が不思議だと言っていて。
写真で見る限り、それが不可能であるはずのことが、彼の頭の中で起きていると。

そうなると当然、いつまで何ができるのか、そもそも命がいつまで続くのかという話になるわけですが、そうは言ってもそこには個人差があり、治療もまだ諦めたわけではない。
ただ、楽観的に考えていると自分たちが何もやりきれなかったことをすごく後悔すると思ったんです。
僕はそのときに年内(2015年)に川島くんの歌を録らないと作品を形にできなくなってしまうだろうと思った。
それが7月末ぐらいのことですね。

仮に、残りの人生があと1年だと仮定した場合、川島くんは何をしたいのか……。
たとえば家族と旅行に行きたいとか、誰かと会いたいとか。彼がやりたいこと、僕はそれを出来る限り叶えてあげたいと思っていて。
ただ、一方で本音としては1本でも多くライヴがやりたいし、1曲でも多く残したいという希望もあって。
とはいえ、そこでもし川島くんが残りの人生を音楽ではないことをして過ごしたいと言うなら、それを押し付けることができないのもわかってました。
そこで彼に何がしたいか、選択肢を並べて聞いてみたら、彼が最初に選んだのは“音楽”だったんです。

 

2015年12月には麻痺が始まり、記憶することも難しくなっていきました。

 

ブンブンサテライツはいつも中野さんの自宅兼スタジオに16時に集まって明け方まで作業をする日々でしたが、それができなくなっていきます。
0時前には中野さんが川島さんを自宅まで送っていきます。しかし、川島さんは翌日には前日のことを忘れていて、作詞が一向に進みません。

中野

もう美談どころの話じゃないんですよ。
彼は最後まで音楽を作ろうとしていて、僕がちゃんと言って聞かせないと、それを止めることはできなかったんです。

最後の方とかは家への帰り道とかも分からなくなってしまっていた。空間の認識能力とかもなくなっていて。
行きは家族に送ってきてもらって、帰りは僕が家まで送っていたんです。それでも「もっとどうしてもやりたい」って、勝手に一人でタクシーとかで来ちゃうんですよ。
最後まで諦めていなかった。本当にすごい人だったなと思いますね。

 

 

中野

最後、録音をする日には奥さんにも来てもらいました。これまで一度もそういうところを見せたことがなかったので。

2016年1月。
レコーディング作業が難しくなった川島さんは自宅療養に入ります。

川島さんの家族にとってはこれほど長くお父さんと過ごした時間はなかったそうです。
みんなでディズニーランドに行ったり、お花見に行ったり、花火を見に行ったり、最後の10か月間は家族との思い出を作る時間でした。

川島さんは「マクドナルドとスターバックスとディズニーランドは嫌いだ」とカッコつけてよく言っていたそうですが、家族のためにみんなで連れて行ったそうです。

 

2016年
EP『LAY YOUR HANDS ON ME』

『LAY YOUR HANDS ON ME』

 

川島さんの非常に難しいコンディションを乗り越え、最後のシングル『LAY YOUR HANDS ON ME』を完成させます。

このMVには川島さんの実の娘さんが登場しています。

中野

レコーディングは本当に大変でした。川島君の体力的なこともあり、1日に1フレーズしか録れないこともありました。
ただ、出てくる声は、ミュージシャンとしてのエゴがなく、ここ最近の作品から、業が抜けおちていく感じがしていましたが、今回はそれの究極の形を表現しているのかなと思い、すごいものを見た気がしました。

中野

僕はいまだにどこまで川島くんがこの作品を理解しているのか……好きなのか、嫌いなのか、それさえも計れないし、本当にわからない。
ただ、川島くんが曲を聴いて“よかったです”と一言言ってくれて。そこで何かひとつ解決したかなと思います。

 

2016年5月31日
ブンブンサテライツ 活動終了

ブンブンサテライツはアーティスト活動の終了を正式発表しました。

中野

僕たちアーティストは楽曲を残すことが出来て、それは作品としてずっと生き続ける。音楽を誠実に作ってきたのでどの作品も恥ずかしくありません。
これまでやってこられたのは、支えてくれた人たちがいたからで、聴いてくれた人たちに感謝の想いでいっぱいです。
僕たちの曲が生き続けるので、作品のなかで何度でも会いましょう。

 

2016年10月9日
川島道行 逝去

BOOM BOOM SATELLITESの川島道行さんが、9日午前5時12分、脳腫瘍のため逝去しました。享年47。

中野

青春がようやく終わる、そんな感じがしてます。
僕はもはや40歳を超えましたけど、“もう一度青春を”って恥ずかしげもなく言えるんですよ。
中学生、高校生で初めて楽器を手にして友達と何かを始めるときのワクワクするような気持ちや、初めて曲ができたときの感動、喜び。
そういったものが最後まで続いたんです。そして、それは本当に青春だったんです。

中野

僕は、僕の人生をすごくいい人生だと現時点では思えていて。
なぜかというと、自分がやってきたことに対して肯定的でいられているから。上手くいったことも、上手くいかなかったこともある。でも、上手くいかなかったことがないと、上手くいったことも起きなかったかもしれない。今の自分を形作るには、全部が必要なことだったと思うから、自分の人生を、全部肯定できるんですよね。
もちろん、酷いこともありました。でも、だからとって「酷い人生だ」とは1ミリも思わないです。で、今の自分は、今日以降、また新しい自分の人生を作るにあたって、よりよくしようと思っているわけで。その方向性自体が、すごくいいなと思っているんです。

 

『LAY YOUR HANDS ON ME』

作詞:川島道行

Lay your hands on me while I'm bleeding dry
Break on through blue skies,I'll take you higher

Caught up in circles
All dreams and bright lights
Wait I'm here always,brighter than sunshine

I fly
Fly out
Fly out to your heart
Fly out
Fly out

Lay your hands on me
Stay close by my side
Drive me so crazy
Moonlight and star shine

Faded into the setting sun
I'll see you again I'll carry on
Feeling like I'm floating leaves in the fleeting sky
you can sing that song

Let it go
Move on
Let's go way out
Spaced out
Spaced out

Lay your hands on me stay close to my eyes
Drive me so crazy wake up in your arms

 

ずっとその手で触れていてくれ、生気が抜けてゆく僕のからだに
青空を突き抜けて、君をもっと高いところまで連れて行こう

ぐるぐる堂々巡りしている、全ての夢と煌々とした光が
いつだってここで待っている、僕は、太陽よりまぶしく輝きながら

僕は飛ぶ
飛び立つ
飛び立つ
君の心へと飛び立つ

僕は沈みゆく太陽の中に消えてしまった
僕はまた君と会えるだろう、まだ立ち止まらない
まるで消えつつある空に漂う木の葉になったような気分だ
きみはあの歌を歌ってくれていいよ

それを手放して
前に進むんだ
道から大きく外れよう
心を空っぽにして
道から大きく外れよう

引用元:BOOM BOOM SATELLITES 19972016 -Text,Photography-

 

 

「ブンブンサテライツとしての最高の瞬間は?」と尋ねられた中野さんはこう答えました。

中野

きっと、何かのライブだとか、曲が出来た瞬間だとか、そういうことではない気がします。
だから、そうですね、やっぱり川島君が亡くなる直前、2日前に自宅に会いに行った時、別れる際、最後に手を振ってくれたんです。もう全然身体が動かない中で、それでも、きっとすごい力を振り絞って手を振ってくれたんだと思うんですけどね。あの瞬間かな。

川島君はもう意識も朦朧としていたんですけど、でも、そこで手を振ってくれた時に、なんかこう、彼が全てを納得している感じがしたんです。その時の目力というか、実際にはそんな目力はもうなくなっていたんですけど…。それでも僕にはその時の目がすごく力強く見えた。その川島君を見た時に、ああ、俺たちちゃんとやり切ったかなっていう感覚になれました。

 

 

<テキスト出典元>

billboardJAPAN

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別冊カドカワ 総力特集 BOOM BOOM SATELLITES

 

<画像出典元>

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