Red Hot Chili Peppers 『Give It Away』 アンソニーとドラッグ

Red Hot Chili Peppersです。

日本でも大人気のバンドで、略して「レッチリ」
英語圏の国では「チリペッパーズ」
書くときにはRHCPと略されることが多いです。

とにかく人を楽しませることが大好きな4人。
どこへ行っても悪ふざけをしたり、すぐに全裸になっちゃったりします。

そんなちょいワルなエンターテイメント性とは裏腹に、彼らが作り出す音楽への評価や実績は圧倒的なものがあります。

アルバムの売上枚数は6000万枚以上グラミー賞を6度獲得(2016年現在)

ラップロックという新ジャンルを世界に広めたパイオニアとしての評価も見逃せません。

演奏技術も卓越していて、特にベースのフリーは超絶技巧を持つベーシストとして有名で、数多くの他のミュージシャンの作品にもゲストとして呼ばれています。
ちなみに、最初にロックにスラップ奏法を多用した演奏を取り入れたのはフリーだと言われています。

この記事ではそんな彼らの曲の中から、
『Give It Away』という曲について深く掘り下げて、和訳します。

Red Hot Chili Peppers 『Give It Away』

楽しいミュージックビデオですね(笑)
この曲で、グラミー賞の「Best Hard Rock Performance With Vocal」を受賞しました。

中心メンバーはこの2人

アンソニー Anthony Kiedis(写真右)
フリー Flea(写真左)

ムキムキの体でステージを飛び跳ねている2人です。
なんと言うか、2人とも異常なほど生命力がみなぎっています。生まれつきの尋常じゃないパワフルさがあるんですよね(笑)

レッチリは常に4人メンバーですが、アンソニーとフリー以外のメンバーは入れ替わりが激しく、たった1週間で解雇された人もいるほどです。

メンバーがコロコロ入れ替わるのがこのバンドのスタイルです。

入れ替わりが激しい理由は、人間性の違いやドラッグの問題などいろいろありますが、1番の大きな理由はレッチリの作曲方法にあります。

レッチリでは、メンバー各々がアイデアを持ち寄り、ジャム・セッションから新曲を生み出すので、プレイスタイルや感性がとても重要になります。
音楽的感性がピッタリと合わない人とダラダラと一緒にやっていても素晴らしいものは生まれませんからね。

アンソニーとフリーは底抜けに明るい性格で、何が起きても基本的にポジティブですが、人生は浮き沈みが激しく、良い意味でも悪い意味でも経験豊か。

彼らはどういう人生を歩み、どんな曲を生み出してきたのか。
レッチリの曲のほとんどを作詞をしているアンソニー・キーディスの人生を通して、彼らの音楽を見ていきましょう。

※メンバーの変遷については細かく触れると文章が長くなりすぎるので、多少割愛させて頂きます

1962年11月1日
アメリカ・ミシガン州・グランド・ラピッズで産まれる

アンソニーは子供が普通に成長するには難しい両親の元に産まれました。
というのも、アンソニーが生まれる前から両親は結婚と離婚を繰り返していたからです。

その原因は父親のジョン。
ジョンには放浪癖があって、アメリカやヨーロッパをずっと遊び回っている人です。
一度家を出ると何ヶ月も帰ってきません。
一人の女性で満足できる人でもなかったので、数え切れないほどの浮気を繰り返してもいました。

そんな旦那といつまでもやっていける女性はそうはいませんよね。
母親はとうとう愛想を尽かして、アンソニーを1人で育てることにしました。

引用:アンソニー・キーディス自伝 スカー・ティッシュー

1968年(5歳)
母親がジョンの友人スコットと再婚する

母親は再婚したものの、アンソニーは新しい父親となったスコットのことを嫌っていました。
スコットは犯罪を繰り返したり、喧嘩ばかりしているギャングのような男でした。

アンソニーにはなぜ母がスコットと結婚したのか理解できませんでしたが、アンソニーの気持ちとは裏腹に母とスコットの間には女の子が誕生しました。

しかしその後、スコットが犯罪者となり刑務所に入ったため、母親はスコットとも離婚することになります。

どうもアンソニーのお母さんは危険な男を好きになってしまうタイプだったようです(笑)

この頃、アンソニーの実父ジョンはロンドンに住んでおり、ロンドンで買ったカッコイイTシャツと長い手紙をアンソニーに送っていました。
アンソニーはその手紙を読むのが楽しみにしていました。
自分の住んでいる町の外には素晴らしい世界が広がっていて、ジョンはそこに連れて行ってくれる憧れのパパだと思っていました。

小学校に入るとアンソニーはガキ大将になります。
「学校で起こる騒動の9割は俺が原因だったよ」とアンソニーは言っています。

アンソニーは身勝手な喧嘩をよくしましたが、正義感も持っていました。
弱い子が苛められているのを見つけると、苛めてる奴を殴り倒して助けることがよくありました。

アンソニーにはアンソニーだけの正義のルールがあって、自分の正義のルールに従って行動しするタイプです。

一方で、社会で決められた法律などのルールは彼にとっては何の意味もないものだったので、悪さもたくさんしていました。

1974年(12歳)
母親のいるミシガンを離れ、父親のいるカリフォルニアに住むようになる

母親はスコットと別れた後は、スティーブという弁護士と付き合い始めます。
スティーブは優しく、勤勉で、誠実さがあり、人として素晴らしい人物です。
アンソニーもスティーブなら母親を幸せにしてくれると確信しました。

ようやくまともな男性と付き合った母は、後に結婚して女の子をもうけました。
アンソニーにとっては2人目の妹ですね。

「母親にはスティーブと妹たちがいる。俺がいなくても幸せだろう。俺は彼らと離れて実父ジョンと住んでも良いんじゃないか?」
アンソニーはそう考えるようになります。
ジョンがロンドンからアメリカに帰ってきたので、アンソニーは憧れの父親と暮らしたいと母たちにせがみました。


引用:アンソニー・キーディス自伝 スカー・ティッシュー

その願いが叶い、憧れの父ジョンとの生活が始まりました。

ジョンは大麻の売人をしていて、毎日がパーティーのような生活。
ドラッグをキメてクラブへ行き、飲んで踊って、女の子をお持ち帰り。

アンソニーはそんな破天荒な父から、普通の10代では経験できないあらゆることを学びました。
大麻の吸い方を教わったり、大麻の運び屋業を手伝ったりしました。
クラブで豪遊することや、流行のカッコイイ音楽、ヘミングウェイのような文学の名作SEXのやり方まで、何でも父親から学んだそうです。

アンソニーは中学校に入ると悪さに拍車がかかり、軽犯罪なら何でもしました。
スリ、万引き、車上荒し、空き巣、喧嘩、酒に麻薬、などなど…

12歳で初体験もします。相手はなんと父親の18歳の彼女です!!

初体験以降アンソニーの女性遍歴はすごいことになっていきます。
学校の同級生、年上年下の女性、女友達、友達の姉妹、娼婦、ファンなど…
アンソニーは天性の女好きで、彼と寝た女性の数は、現在までに数百人にものぼります。
なにせイケメンのスーパーロックスターですから、普通のモテ方ではありません。
若い頃は特にお盛んで、女性をとっかえひっかえの毎日でした。

アンソニーが中3になると、父親は大麻の売人業に飽きて、俳優になります。
俳優学校へ通い、真面目にプロの俳優を目指し始めました。
アンソニーも父親のマネをして子役の俳優になりました。

ちゃんと子役の仕事をもらっていたようで、
「シルベスター・スタローンと少しだけ競演したし、コカ・コーラのCMにも出たことがあるよ」とアンソニーは語っています。

1977年(15歳)
フェアファクス高校に入学

アンソニーはフェアファクス高校で、生涯の友となる2人に出会います。

フリー Michael Balzary(写真左)
ヒレル Hillel Slovak(写真中央)

ヒレルはすでにバンドでギターを弾いていました。
ヒレルとフリーもすぐに仲良くなって、ヒレルはフリーにベースを教えて自分のバンドに参加させました。

これが後にレッチリ結成へとつながる出会いです。

フリーもアンソニーと同じく悪フザケが大好きで、怖いもの知らずの男です。

こんなエピソードがあります。

この頃、アンソニーとフリーの間では、マンションの屋上から飛び降りて地上のプールに飛び込む遊びが流行っていました。
アンソニーが言うには「たとえプールの水が少なくても、体を横にして飛び込めば大きなダメージはない」らしいですが、あまりにもリスキーな遊びですよね(笑)

ある日、アンソニーはいつものように屋上から飛び降りたのですが、ジャンプに勢いをつけすぎてプールを外れ地面に激突し、なんと背骨を骨折!!
運良く後遺症は残らず回復したものの、下手をすれば半身不随で車いす生活になったり、命を落としてしまう大惨事になるところでした。

毎日がこんな感じでしたが、学校には休まず通っていました。
全科目でA(一番いい評価)を取る事が、彼なりの反抗であり快感でした。
普通ドラッグをやっている奴は学校をサボって仕事もしないろくでもない奴ばかりですが、アンソニーはそんなありきたりな馬鹿が嫌いで、そんな常識に反抗したかったのです。

ドラッグはやる、女を抱きまくる、危険な遊びをする、でも学校では優秀な成績を取る。
それがアンソニーのポリシーでした。

1980年(18歳) UCLAに入学

アンソニーは大学に進学したものの、全く馴染めませんでした。

「周りの学生は真面目で、勉強しか頭にないような奴ばかりでさ」

アンソニーはお金がなかったので、教科書を万引きしたり、食堂で食い逃げをしました。
大学から帰るとヒレルと一緒にマリファナやLSDをやって、街をブラブラしていました。

お金を稼ぐためにアルバイトもしました。
借金の取立て屋、ウェイター、売店の店員、映像製作会社の雑用などです。

しかし、何をしても続かず、
「社会への適応能力がいかに欠けているか思い知らされたよ」とアンソニーは言っています。

そんな生活を送るうちに、ドラッグにどんどんハマってきました。
大麻、コカイン、スピード、…、最後はヘロインにも手を出すようになりました。

麻薬中毒者になったアンソニーは大学にも行かず、仕事も辞め、住んでいた借家も追い出され、友人の家や車の中で寝泊りする生活になります。

1983年(20歳)
Red Hot Chili Peppersを結成

ある日、
アンソニー、ヒレル、フリーの仲良し3人組で即席バンドを結成し、ちょっとしたライブを行おうという話が持ち上がりました。
他のバンドの前座で、客は30人程度の小さなライブです。

ただアンソニーは歌が特にうまいわけではなく、歌唱力に自信がありませんでした。
そこで3人は、フリーのファンクのリズムに、ヒレルのロックの感性をミックスし、アンソニーはラップで歌うことにしました。
ドラムにはヒレルのバンドにいたジャック・アイアンズを呼びました。

ラップロック(ファンクロック、ミクスチャーロック)の始まりです。

「どうせ今晩限りのお遊びバンドだ」とメンバーはみんな思っていたのですが、バンドの圧倒的なパワーとラップロックの新しさに観客は度肝を抜かれ、そのショーのプロモーターが「また来週もやってくれ!!」と頼み込むほどの大盛況でした。

バンドはプロモーターの要請を快く引き受け、『Get Up And Jump』を作曲して再びギグを行いました。

またもやショーは大成功し、気分を良くしたアンソニーたちは「このバンドをもっと続けよう」と意気投合。
バンド名を“Red Hot Chili Peppers”と命名しました。

レッチリは演奏しながら激しく暴れまわり、独自にあみだした変なロボットダンスをしたり、裸になったりして観客を喜ばせるライブバンドでした。

「全裸になってアソコに靴下だけをはめて隠す」というパフォーマンスをし始めたのもこの頃です。
“バカ騒ぎを客と一緒に楽しむ”というバンドのスタンスは結成当初から現在までずっと続いています。

ライブ活動の一方でレッチリは真面目にデモテープを作り、ニューヨークのクラブまで売り込みに行きますが、門前払いばかりでうまくいきませんでした。

まだラップロックはニューヨークでは新し過ぎたのです。

しかし、LAでは徐々に有名になっていきました。
そしてレッチリのライブを見たタレントマネージャーにスカウトされ、EMIレコードと契約を結ぶことに成功しました。

いよいよこれからという矢先、ヒレルとジャックが元々やっていたバンドに残ることになり、脱退します。
変わりにドラマーのクリフと、ギタリストのジャック・シャーマンが加入しました。

1984年(21歳)
1stアルバム『Red Hot Chili Peppers』発表

このアルバムはプロデューサーのアンディ・ギルやジャック・シャーマンとの方向性の違い、アンソニーが麻薬中毒でしばしばレコーディングをすっぽかしたことなどが重なり、納得いく出来にはなりませんでした。

実際この1stアルバムは全く売れませんでした。

一方で、アンソニーの麻薬中毒は酷くなっていました。

ある日、麻薬の代わりに酒を飲みまくり、車を運転して、大事故を起こします。
頭骸骨骨折、眼窩底骨折で、頭はパックリ割れ、鼻は潰れきって、唇は鼻まで腫上がり、眼は完全に塞がっていました。
「もう人間の顔には戻れないな」とアンソニーは思ったらしいですが、たまたま形成外科の名医が担当になったおかげで元の顔に戻ることが出来ました。

背骨の骨折のときもそうですが、死んでもおかしくない事故を起こしても完全復帰できるんだから、アンソニーはめちゃくちゃ運が良い人ですね。

1985年(22歳)
2ndアルバム『Freaky Styley』発表

うまく行かなかったギタリストのジャック・シャーマンが脱退し、ヒレルが再加入しました。
このアルバムの売上はイマイチでしたが、Pファンクの神様ジョージ・クリントンがプロデューサーをしており、音の出来としてはメンバーたちは大満足しているそうです。

1987年(24歳)
3rdアルバム『Uplift Mofo Party Plan』発表

ドラマーのクリフをクビにし、ジャック・アイアンズが復帰しました。

このアルバムのレコーディング中、アンソニーはバンドをクビになります。
アンソニーの麻薬中毒は酷くなる一方で、バンド活動に大きな支障をきたすようになったからでした。

アンソニー自身も「このままでは死ぬのは間違いない」と思い、麻薬やアルコール中毒者を専門で扱う更生施設に入ります。
地獄のような禁断症状との闘いの20日間を経て、11歳の時以来、初めてクリーンな身体に戻りました。

そしてバンドへも復帰しました。

しかし、2ヶ月も経たないうちにまたコカインとヘロインを打ち始めます。
アンソニーは今後10年以上にも渡って、中毒→クリーン→中毒→・・・を繰り返します。
完全に麻薬の精神依存状態になっていきました。

1988年(25歳)
ヒレルがOverdose(薬物の過剰摂取)により他界

アンソニーは親友の死に酷く落ち込みましたが、それでもドラッグを続けました。

「ヘロインの中毒性はハンパじゃない。1度手を出したら終わりだ。止めたいと思って止められるほど甘いもんじゃない」とアンソニーはヘロインの恐ろしさを語っています。

ヒレル以外にもアンソニーの友人はドラッグをやっている人が多かったので、何人かは歯が抜け落ちガリガリに痩せて死んでいきました。

ドラマーのジャック・アイアンズはヒレルの死にショックを受けバンドを脱退します。
代わりにDHを入れ、ギタリストはオーディションでジョン・フルシアンテを採用しました。

1989年(26歳)
4thアルバム『Mother’s Milk』発表

このアルバムがついに全米で大ヒット!!

収録曲の『Knock Me Down』は麻薬中毒の自分への戒めの歌。
ドラッグで亡くなったヒレルへの思いも込められています。

このアルバムの製作途中でDHはアルコールとドラッグ中毒のため解雇。
そしてオーディションで現在もレッチリのドラムを叩くチャド・スミスを採用しました。

チャドの加入はレッチリにとって大きな前進をするきっかけとなりました。
アンソニーはこう言っています。
「チャドの加入以前には考えられなかったような新しい道が拓けたんだ。それまでとはまったく異なることをやり始めたんだよ。そしたら、ラジオから俺たちの曲が流れるようになってさ。俺たちの地平線を広げてくれたのはチャドだね。」

1991年(28歳)
5thアルバム『Blood Sugar Sex Magik』を発表

ワーナー・ブラザーズと新規契約して出したアルバムです。

このアルバムは世界中でメガヒットを記録しました。
売上枚数は1300万枚以上、シングルカットされた『Give It Away』はグラミー賞を獲得しました。

また、バラード曲『Under the Bridge』は全米No.1を獲得しました。

『Under the Bridge』

この曲の詩も素晴らしいです…ジョン・フルシアンテのギターも最高ですね

アルバム『Blood Sugar Sex Magik』で名実ともに世界的なロックバンドにのし上がったレッチリですが、バンド内のゴタゴタは絶えませんでした。

ジョン・フルシアンテがヘロイン中毒と音楽の方向性の違いを理由に脱退。
代わりにアリクが加入、しかし、数ヶ月でクビになり、デイブ・ナヴァロが加入しました。

この後もゆっくりとしたペースでアルバムをリリースし続け、ヒットを重ねていきました。
ライブバンドなので、精力的に世界中をツアーしています。

商業的な大成功を収めた後も、レッチリはドラッグと決別できない状態が何年も続きました。

アンソニーは30歳を過ぎてもドラッグをやったり更生施設に入ったりの繰り返し。
ある時はバイク事故を起こし、腕を複雑骨折して、リハビリに9ヶ月もの時間を要しました。

他のメンバーも次々と苦難に見舞われます。

結成の頃からついていたマネージャーは薬物に支配されたバンドの将来を悲観して退職。

フリーはエプスタイン・バー・ウィルスという健康上の問題を抱えたり、2015年には腕を5か所も骨折して一時ベースが弾けなくなり、ベーシスト人生が断たれそうになる危機を迎えました。

デイブはアンソニーよりも深く麻薬中毒になってしまい、バンド活動を続けるのが困難になり、ジョン・フルシアンテが復帰することになりました。
そのジョン・フルシアンテもまた深刻なヘロイン中毒でしたが、更生施設に入り、なんとか人生を取り戻したのでした。

レッチリ、特にアンソニーの人生を苦しめ続けたのはドラッグです。
父親に勧められて11歳から始めたドラッグのせいでアンソニーは何度も窮地に立たされてきました。

ドラッグをやめようと何度も挑戦しては失敗の繰り返しでしたが、
アンソニーは2000年末からドラッグを完全に絶つことに成功し、現在までクリーンを続けています。

多くの人に支えられて立ち上がり、今も自分自身の強い意志で麻薬の誘惑と戦い続けています。

2016年のインタビューでは「最近は興奮するためにやるドラッグと言えば、サーフィンくらいだよ(笑)」と答えています。

また、アンソニーはこうも言っています。
「麻薬との戦いに勝利し続けるには、他の中毒者に手を差し伸べることが大切なんだ。彼らの悩みを聞き、アドバイスする。もっと簡単なことから始めてもいい。自分の力を他人に役立ててもらうことで自分も麻薬と距離を置けるんだよ」

アンソニーは中毒者が更生するためのミーティングに毎週足を運んでいます。
また、レッチリのライブで上がった収益の5%は様々な支援団体に寄付しています。

後で和訳する『Give It Away』は、アンソニーが友達から学んだ教訓を元に作詞しました。

ある日、アンソニーは友達(ニナ・ハーゲン)の家に行きます。
ニナのクローゼットの中にエキゾチックなデザインのジャケットを発見しました。
「カッコイイね!! このジャケット」
「じゃあ、それあげる。持って帰っていいよ」
「え?なんで?一番気に入ってるんだろ?」
「だからあげるの。他人に物をあげるのは大切なことなの。それによって良いエネルギーが創られるからね。クローゼットがいっぱいで、それを全部取っておこうとすると人生は小さくなる。でも、いっぱいのクローゼットの中から、誰かが気に入った服を見つけた時、その服をあげると、世界はもっと良くなるの

この言葉を聞いて、アンソニーは人に奉仕することの大切さを考えるようになりました。
「麻薬中毒者を救うために他人に手を貸すことが、実は麻薬中毒者の自分を救うことになる」のと共通する真理を感じたのです。

『Give It Away』
作詞:Anthony Kiedis、Flea、John Frusciante、Chad Smith

What I’ve got, you’ve got to give it to your mamma
What I’ve got, you’ve got to give it to your pappa
What I’ve got, you’ve got to give it to your daughter
You do a little dance and then you drink a little water

俺が持っている物、お前はそれをママにあげなきゃいけない
俺が持っている物、お前はそれをパパにあげなきゃいけない
俺が持っている物、お前はそれを娘にあげなきゃいけない
お前は少し踊って、少し水を飲む

What I’ve got, you’ve got to get it, put it in you
Reeling with the feeling, don’t stop, continue

俺が持っている物、お前はそれを貰わなければならない、それをお前の中に入れろ ×3
※「俺のアソコをお前(女性)の中に入れろ」というエロい意味も含まれています(笑)
感情を手繰り寄せろ、止めるな、続けろ

Realize I don’t want to be a miser
Confide wisely, you’ll be the wiser
Young blood is the lovin’ upriser
How come everybody wanna keep it like the kaiser

俺はケチな野郎になりたくないと分かってくれ
秘密を全部打ち明けちまえ、そしたらお前は賢い人間になれるさ
青年は愛すべき反乱者だ
どうしてお前らは皇帝のように抱え続けるんだ?

Give it away give it away give it away now
I can’t tell iff I’m a kingpin or a pauper

そんなものやっちまえ、ただでくれちまえ、今すぐに ×3
俺が元締めか貧乏人だったら言えないけどね

Greedy little people in a sea of distress
Keep your more to receive your less
Unimpressed by material excess
Love is free, love me, say hell, yes

苦痛の海にいる貪欲な一般大衆よ
お前の足りないものを得るために、より大切なものを持ってろ
悪いことに踊らされるな
愛は自由だ、俺を愛してくれ、地獄だと言え、そうだ

I’m a lowbrow, but I rock a little know-how
No time for the piggies or the hoosegow
Get smart, get down with the powwow
Never been a better time than right now

俺は教養がない、でもちょっとしたノウハウを揺るがすぜ
子豚や刑務所に構ってる時間はないよ
賢くなれよ、先住民と仲良くなれよ
今この瞬間よりいい時間なんてないぜ

Bob Marley, poet and a prophet
Bob Marley, taught how to off it
Bob Marley, walkin’ like he talk it
Goodness me, can’t you see I’m gonna cough it

ボブマーリーは詩人で預言者
ボブマーリーはそれの外し方を教えた
ボブマーリーは語るように歩いてる
まあ、俺が罪を認めるなんてお前は想像できないだろ?

Give it away give it away give it away now
I can’t tell iff I’m a king pin or a pauper

そんなものやっちまえ、ただでくれちまえ、今すぐに ×6
俺が元締めか貧乏人だったら言えないけどね

Lucky me, swimmin’ in my ability
Dancin’ down on life with agility
Come and drink it up from my fertility
Blessed with a bucket of lucky mobility

ラッキーだよ、自力で泳げることは
軽快に人生を踊り倒している
俺の豊かさを飲み干しに来いよ
バケツ一杯のラッキーな流動性に恩恵を受けている

My mom, I love her ‘cause she love me
Long gone are the times when she scrub me
Feelin’ good, my brother gonna hug me
Drink my juice, lone chug-a-lug me

俺のママ、俺は彼女を愛している、彼女は俺を愛してくれるからね
昔、彼女は俺をゴシゴシ洗うこともあったさ
いい感じだ、兄弟が俺をハグしてくれるだろう
俺のジュースを飲めよ、一人で俺を飲み干してくれ

There’s a river born to be a giver
Keep you warm, won’t let you shiver
His heart is never gonna wither
Come on, everybody, time to deliver

あの川は生まれながらの贈与者だ
お前を暖め続ける、震わせはしない
奴の心は絶対に折れない
おい、みんな、配る時間だぞ

最後の段落のriverとは、俳優のリヴァー・フェニックスのこと。
リヴァーはレッチリのサポーターで、アンソニーが信頼していた人物です。
そのため、彼への感謝を込めた詩を書きました。
残念ながらリバー・フェニックスもオーバードースで1993年に親友のフリーに看取られながら亡くなっています。

『Give It Away』は麻薬中毒になった経験と、ニナ・ハーゲンの言葉から生まれた曲です。

人に与えることが、自分を救うことに繋がる。
アンソニーはそのことに気づきました。

「情けは人の為ならず」ということわざがありますが、まさにそれですね。

情けは人の為ならずとは、人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる。人には親切にせよという教え。

引用:故事ことわざ辞典

もし誕生日などに何をプレゼントしようか迷ってるのなら、あなたが大切にしているものをプレゼントすると良いかもしれません。
自分が持っている物の中に相手が欲しいと思う物があるのなら、何かの機会にプレゼントしましょう。
相手はとても喜びますし、自分の心には不思議な余裕が生まれますよ。

最後に余談ですが、
レッチリは『デスノート』の主題歌を歌ったりしているので、日本人にも馴染みのある人が多いです。

でも、なぜかアンソニーと日本の相性は最悪です。
彼が来日すると、必ず彼に不幸が起こります。
ジョン・フルシアンテが日本公演の時に脱退したり、フジロックで超大型台風が直撃して公演途中で中止になったり、脛骨を疲労骨折したり、急性肺炎になったり。

不思議ですね。

こんなに災難続きなのに、超ポジティブなアンソニーは日本のことが大好きみたいです。

この記事の画像の引用元:Red Hot Chili Peppers公式サイト『http://redhotchilipeppers.com/

関連サイト

wikipedia 『give it away』

歌詞GET 『give it away』

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