Sid Vicious 本名John Simon Ritchie
伝説的パンクバンド「Sex Pistols」のベーシスト
"パンク=シド"
こう思っているパンク好きな人も大勢います。
「彼が生きた人生はパンクそのものだ」と言われています。
そこまで言われるようになった彼の人生。
一体どんな人生だったのでしょうか?
その一端が表現されている彼の代表曲『My Way』を聴いてみてください。
Sid Vicious 『My Way』
完全にイっちゃってますね(笑)
ぶっ飛びすぎてて生理的に受けつけない方もいるかもしれません。
この曲はフランク・シナトラの名曲『My Way』のカバーです。
あのメローな曲をシドがやるとこうなるわけです。
最後に客に拳銃をブッ放して、中指を立てて帰っていく。
「世の中なんてクソったれだ」って感じですね。
みなさんは、パンクというと日本人アーティストでは誰を思い浮かべるしょうか?
私は"The Blue Hearts"なんですけどね。
彼らのライブパフォーマンスや曲調はパンクの王道だと思います。
一方で、ブルーハーツの歌詞には人生の本質を突いた表現があったり、深い優しさを感じたりしますよね。
いわゆるハチャメチャなパンクのイメージとは真逆のメッセージです。
そういう意味で、精神的には"尾崎豊"の方がパンクな気がします。
盗んだバイクで走り出したり、夜の校舎窓ガラス壊して回ったり、完全にパンクです(笑)
では、本物のパンクのカリスマ "シド・ビシャス" は、どういう人なのでしょう?
『My Way』で彼は何を伝えているのでしょう?
それを知るために、まずは彼が全力で駆け抜けた21年間を見ていきましょう。
1957年5月10日
イギリスの首都ロンドンのイーストエンドで生まれる
イーストエンドというのはロンドン東部の下町で、労働者階級、貧民層、外国人などが住む地域。チャンスに恵まれない人々が多く住む、治安が悪いエリアです。
シドの父親は母親がシドを生んだ後、すぐに姿を消したため、
母親はひとりでシドを育てることになりました。
しかし、その母親にも問題がありました。
彼女は麻薬の常習者であり、どの仕事に就いても長続きしなかったのです。
貧困と麻薬漬けの毎日でしたが、なんとか彼女なりに女手ひとつでシドを育てていました。
1965年 シド7歳
母親が再婚したが、半年後に義父が他界
新しい父親は上流階級出身でした。
母親はようやく生活力のある男性に出会い、シドにも素晴らしい父親ができるはずでした。
しかし、あまりに早い死のため、シドと養子縁組の手続きさえ終わっていませんでした。
母子にとって唯一の救いは、亡くなった義父の両親の協力があったため、経済的には安定した生活が送れるようになったことでした。
この頃のシドは「マンガが好きで穏やかな子供だった」と母親は語っています。
1972年 シド15歳
ストーク・ニューイントン・チャーチ・ストリート校を退学
シドは頻繁に学校を替えていました。
とにかく学校が嫌いで、親しい友達もできませんでした。
シドはアートに興味があったので、次は芸術学校に行くことにしました。
そして、この学校でジョン・ライドンと出会います。
ジョンと親しくなってから、シドはジョンの不良グループとつるむようになります。
ちなみに、シド・ビシャスというあだ名はジョン・ライドンの飼っていたハムスターのシドという名前と、ルー・リードの曲『vicious(背徳)』から取りました。
1974年 シド17歳
家を出てホームレスになる
母親と大喧嘩をしたことが原因でシドは家出をします。
母親はこの出来事を後々まで後悔していました。
「私が家から追い出したことが、あの子の人生を狂わせた」
彼女は死ぬまでそう思っていたようです。
シドは住む場所がなくなったので、スクウォットで生活をするようになります。
(※スクウォットとは、誰も住んでいない廃墟となったビルやマンションのこと)
スクウォットには浮浪者や外国人など、お金を全く持っていなくて生活が非常に苦しい人々が住み着いていました。
シドは生活のために売春を始めます。
「僕を試してみて」と書いた自分の写真を配って客をとっていました。
しばらくしてレストランの清掃員のアルバイトにこぎつけたため、食べ物を盗んだり、もらったりして食料だけは確保できるようになりました。
そんな生活の中、シドとジョンは小さな洋服店「SEX」を見つけます。
派手で個性たっぷりの見たこともない服を売っていたその店の店主が、
マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウェストウッドでした。
マルコムは服飾業界だけでは大成功できないと考え、バンドのプロデュース業をして自分のファッションと共に世に売り出そうという野望に満ちていました。
そこで彼は店に集まる若者の中から有望な人間を集め、バンドを結成させます。
スティーブ、ジョン、グレン、ポールの4人で結成されたそのバンドは"Sex Pistols"と名づけられました。
後にパンクの象徴的なファッションとなった「破れたシャツ、逆立てた髪の毛、安全ピン、カラフルな色使い、細身の体型」などはマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドがセックス・ピストルズをプロデュースしたことによるものだとされています。
シドは友達のジョンがボーカルだったので、セックス・ピストルズのファン第1号となりました。
1976年4月 シド18歳
セックス・ピストルズの初ライブが行われる
このライブは、途中までは普通に行われました。
しかし、ライブ中に突然ヴィヴィアンが客の女性をひっぱたき始め、その女性の彼氏がヴィヴィアンに殴りかかり、それを見たマルコムが彼氏をボコボコに殴り、バンドもシドも喜んで乱闘に参加して大乱闘になりました。
当時の主要音楽3誌が大題的にこの事件を取り上げます。
マルコムたちは暴力的な話題を作り、ロンドンではちょっと名のしれたバンドになることに成功したのです。
『セックス・ピストルズは問題児』というイメージで売りたかったマルコムとヴィヴィアンは、店に来る若者やセックス・ピストルズのファンを巧みに誘導し、彼らはドラッグに支配されるようになりました。
セックス・ピストルズのライブにはドラッグをやっている若者たちが集まり、ライブの度に客やバンドが喧嘩になる。
マルコムたちはそういう状況を作り出しました。
学校にもいかず、なんとか食っていけてるだけの将来性のない毎日を送っていたシドは、セックス・ピストルズを通じてパンクロックに夢中になります。
ライブで暴れまわり、喧嘩しているときだけがシドの孤独感を和らげてくれました。
パンクは暴力を容認し、シドは暴力で孤独を忘れられたのです。
次第にシドはデヴィッド・ボウイのように名声を手に入れたいと考えるようになりました。
華やかな場所に行きたいと。
同年9月 シド19歳
パンク・ロック・フェスティバルが開催される
パンク・ロック・フェスティバルの2日目の公演で、客席からステージに投げられたビール瓶が割れ、その破片が少女の目に刺さる事件が起きます。
ビール瓶を投げた容疑者としてシドが警察に逮捕され、警官に暴行を受けました。
その後、拘置所に送られました。
シドは無実だったと客達の証言がありましたが、実際に捕まったのはシドでした。
無実のシドは、拘置所で自分をとりまく社会をどう思っていたのでしょうか。
同年11月
セックス・ピストルズはEMIとレコード契約を結び、1st single 『Anarchy in the UK』を発表
Sex Pistols『Anarchy in the UK』
生放送TV番組『Today』にセックス・ピストルズが出演します。
「Fuck」「Sit」を連発した酷いインタビューが問題となり、翌日のすべての全国紙の1面を飾りました。
これが原因であらゆる場所でセックス・ピストルズは出入り禁止となり、12月に組まれていたツアーはほとんどこなせなくなりました。
セックス・ピストルズが反社会的で問題ばかり起こすお荷物バンドだと気づいたEMIは契約を打ち切り。
さらにジョンとグレンの仲が修復不可能なまでに拗れ、グレンが脱退してしまいます。
セックス・ピストルズは新たなベーシストを探すことになりました。
1977年3月 シド19歳
シドがベーシストとしてセックス・ピストルズに加入
A&Mとレコード契約を結ぶが7日後に契約を打ち切られる
シドはセックス・ピストルズに加入したもののベースが全く弾けませんでした。
ステージに上がったらちょっと弾くフリをする程度で、ベースはもっぱら喧嘩のための武器代わりでした。
ベースも弾けないのにステージに立ったシドを、観衆は絶賛します。
その無鉄砲さ・反逆心こそがパンクの本質であり、シドは急速にパンク・ムーブメント全体の象徴となっていきます。
セックス・ピストルズはスピークイージーというクラブでまたもや乱闘騒ぎを起こし、喧嘩相手がA&Mの大物だったため、わずか7日間で契約を打ち切られました。
レコード会社との契約が切られるのは2回目です。
そしてこの頃、シドは人生を大きく変える運命の女性と出会います。
ナンシー・スパンゲン
彼女はアメリカのバンドのグルーピー(メンバーとsexもする熱狂的な追っかけ)として、ロンドンまで追っかけて来て、シドと知り合いました。
知り合ってすぐに二人は恋に落ちました。
シドは心底ナンシーのことを愛していて、彼女に依存するようになります。
しかし、問題はナンシーがヘロイン中毒者だったことでした。
ヘロインというのは麻薬の中でも特に依存性と身体への悪影響が強く、やめれなければ最終的に死に至ります。
シドはナンシーの影響もあって、すぐにヘロイン中毒者になりました。
みるみるうちに体調を悪くしたシドは4月にはB型肝炎で病院に担ぎ込まれます。
同年5月12日 シド20歳
ヴァージン・レコードとレコード契約を結ぶ
ヴァージンは『God Save the Queen』を5月27日にリリースすると発表しましたが、レコードのプレス工場の職員たちは、曲を耳にするなり「こんな反社会的な曲は作りたくない」と言って、工場から出て行くという有様でした。
セックス・ピストルズの曲はエリザベス女王をおちょくるなど当時のイギリスで"タブー"とされていることをやりまくったため、メディアで大きな話題になったり、若者から熱狂的な支持を集めたりする一方で、セックス・ピストルズの存在そのものを嫌悪する人も多かったのです。
同年5月27日
2nd single 『God Save the Queen』をリリース
『God Save The Queen』
反社会的すぎる曲だったため、大手レコード販売店は販売を自粛。
一方でイギリスのメディアはバンド側につきます。
有力な雑誌や新聞はセックス・ピストルズの記事を大きく扱いました。
その結果、大手の小売店はレコードを販売していなかったにも関わらず、5日間で15万枚を売り上げヒットチャート1位になります。
しかし、BMRB(イギリス市場調査局)はそれを認めず、1位はロッド・スチュワートであると発表しました。そしてセックス・ピストルズは2位としました。
セックス・ピストルズはイギリスやイギリス王室を皮肉った言動や歌を歌っていたので、イギリス国内の愛国者や右翼団体に狙われるようになります。
日本で例えるなら天皇陛下をバカにするような歌詞です。そりゃあ周りが敵だらけになりますよね。
実際に襲われることも度々ありました。
セックス・ピストルズのスタッフが襲われて手足を骨折したり、ポールは鉄棒で頭を殴られたり、ジョンはナイフで手足を刺されて後遺症からギターを弾けなくなりました。
街中を歩いているだけでも危険がつきまとうイギリスから逃れるため、バンドは北欧ツアーに出かけました。
バンド関係者は皆、「シドはこのツアー中に随分変わった」と語っています。
「セックス、ドラッグ、ロックだったら何でも貪った」と。
シドにパンクのスターになって欲しいナンシーを喜ばせたいがために、シドはナンシーが憧れるロックスター像を演じてみせたのです。
その姿はマルコムとヴィヴィアンが目指したセックス・ピストルズそのものでした。
しかし、それは終焉が近いことも意味していました。
1978年1月 シド20歳
アメリカツアー開始
このアメリカツアー中はシドは麻薬の売人から引き離され、ヘロインの禁断症状に苦しんでいました。
ドラッグを持っていそうな人や金を持っていそうな人に付きまとうようになったりして、スタッフが目を離すとすぐにどこかへ消えていくことが多くなりました。
また、苦しさを紛らわすために自分の体をナイフで刻むようになります。
ツアー中、気が狂ったかのような行動もとるようになり、数々の伝説を残しています。
同年1月 ジョンが脱退
以前からバンドの人間関係に不満を持っていたジョンが、シド以外のメンバーを呼び出して脱退する旨を伝えました。
シドとジョンの関係も、ナンシーが現れて以来、悪くなっていました。
そんな中、シドはアメリカツアー中のある日、ファンの女の子とSEXをしていた最中にドラッグのOverdose(大量摂取)により死にかけます。
ジョンが脱退する、シドは死にかけるというメチャクチャな状態にバンドが陥ったので、ツアーは打ち切りを余儀なくされました。
シドは帰国後ナンシーと再会し、また常習的にヘロインをやるようになりました。
同年8月 21歳
シドがセックス・ピストルズから事実上脱退
マルコムの独断的なマネージメントに嫌気がさしていたシドとナンシーは、セックス・ピストルズから離れることを決意します。
そして新たなキャリアをスタートさせるため、2人でニューヨークへと旅立ちます。
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