リンドバーグ。
アラフォー世代の青春を彩ってくれたバンドですね。
私は最近よくリンドバーグを聴いてるんですよ。
アルバムをLINDBERG ⅠからLINDBERG Ⅹまで聴き直してて、やっぱりいいなと。
むしろタイムリーに聴いていた頃よりも今の方が心にグッと来ます。
中でも『Looking For A Rainbow』にやれました。ガツンと、フルボッコ。
久しぶりに記事を書くパワーがみなぎってくるほど心を揺すぶられました。
この記事では『Looking For A Rainbow』の歌詞の考察とともに、作詞した渡瀬マキさんについても詳述していきたいと思います。
Looking For A Rainbow
まずは『Looking For A Rainbow』を聴いてみましょう!
こちらは1991年のライブ映像。
まっすぐに歌う渡瀬さん。ギターの太いバッキングもカッコいい!
『Looking For A Rainbow』
作詞:渡瀬マキ
朝もやのかかるバス停の椅子腰かけて
あなたはくすんだ髪かきあげて 目を閉じた 空をみるように先生も友達のママも
あの子には近寄らないでと(She's Just a Rainbow chaser)※Looking for a Rainbow
幼い頃手をつなぎ二人で見つけた
虹がおりる丘 あの時のままあなたの目は変わっていないのに学校にあなた来なくなって5日後に
あなたの机が教室からなくなった 二度と戻らない嘘つくのが何よりも嫌だった
だからいつも誰よりも傷ついた(She's Just a Rainbow chaser)☆Looking for a Rainbow
今日もあなたはあの日見た虹を探している
虹がおりる丘 誰にも壊せないプライドをたったひとつ抱いて※リピート
☆リピートLooking for a Rainbow
あなたがくれたまっすぐに今を生きる勇気
虹がおりる丘 明日へつなぐかけ橋だとあなたは気づいてた
歌詞の意味を深堀りするのは後回しにして、まずは素直に考察してみます。
登場人物は"話し手"と"あなた"、幼馴染の2人です。
"あなた"は英語で"She"と表現されているので、性別は女性ですね。
彼女は「くすんだ髪」をしていて、「先生や友達のママからあの子には近づくな」と言われるような子。
周囲から浮いた存在で、仲間外れにされていることが分かります。
そして彼女は学校を退学しました。
理由は書かれていません。周りとうまくやっていけなかったのでしょうか。
だけど、私は知っています。
彼女が嘘をつかない人で、だから深く傷ついて、それでも自分を曲げなかったことを。
彼女の目は幼い頃から変わっていないことを。
彼女のまっすぐに生きる姿勢は、私に生きる勇気を与えてくれました。
歌詞の中で何度も登場する「Rainbow(虹)」が意味することは、
2人の美しい思い出であり、彼女の美しい瞳であり、彼女の純粋な心であり、2人が幼い頃からずっと胸に抱いている夢ですね。
「She's Just a Rainbow chaser」というコーラスからは、彼女が退学した後もまっすぐに夢を追っていることが分かります。
情感あふれる物語を歌っていますように感じますね。
単純に歌詞を読んだだけで考察したらこんな感じ。
でも、作詞者の渡瀬マキさんの経歴や渡瀬さんのこの曲についてのコメントを知ると、上記の考察とは別の景色が見えてきます。
渡瀬マキがLINDBERGを結成するまでの経歴
ここからはさらに歌詞を深く読み解くために、渡瀬さんの経歴を見ていきます。
『今すぐKiss Me』で大ブレイクした後のLINDBERGはよく知られていますが、そこにたどり着くまでの物語をご紹介します。
幼少期
渡瀬マキさんは三重県鳥羽市の出身。
海と山に囲まれた自然豊かな場所です。伊勢神宮に近く観光名所も多いので、観光客が伊勢神宮に参拝したついでによく訪れる場所ですね。
幼い頃は3歳下の妹さんや近所の友だちと野山を走り回る少女でした。自然を探検するのが好きで、野草にマヨネーズをかけて食べたりするような自然児だったそうです。
芸能界に興味を持ったきっかけは松田聖子さん。
小学生の時にテレビで見て衝撃を受け、憧れの存在なります。松田聖子さんの歌い方を猛練習して完コピしたり。初めて行ったライブも松田聖子さんのコンサートでした。
コンサートで生聖子を見てますます虜になった渡瀬さんは「私もアイドルになりたい」という夢を抱きます。
髪型を聖子ちゃんカットにし、毎日部屋の雨戸を閉めて歌の練習に励むようになりました。
明星や平凡などのアイドル雑誌に載っていたオーディションの募集には片っ端から応募。しかし何十通も送ったのに全部不合格。
それでもめげずに応募をし続けてたら、ひとつだけ合格をもらいます。
名古屋の音楽スクールでした。
そこは歌のレッスンを名古屋市でやっていたので、合格後は歌のレッスンに通うようになります。中学三年生の時から近鉄に乗って通っていたそうです。
ちなみにオーディションの費用、レッスン料、交通費などは全部自分で払っていました。飲食店や海の家などでアルバイトをして頑張ったそうです。
中学から高校にかけて、渡瀬さんはひたむきに歌手としてのスキルを磨いていたんですね。
そして高校3年生の時。
スクールのすすめで受けたオーディションに受かり、アイドルデビューを果たします。
渡瀬さんの努力をご両親はずっと見ていたので家族からの反対はありませんでした。「マキの人生だからマキが決めて」と。
高校の先生だけは「何考えているんだ!」と言ったらしいですけど(笑)
渡瀬さんは夢を叶えるためにまっすぐに突き進む少女だったんですね。
「もう地元には絶対に帰らないぞ」と、ものすごい覚悟を持って上京しました。
アイドルデビュー後
こうして渡瀬さんはフリフリの衣装を着て歌うアイドルになる夢を叶えました。
しかし、実際に仕事をしてみると違和感を覚えるようになります。
デパートの屋上でカラオケをバックに歌うような仕事がどうにもしっくりこない、自分とは合わないと感じました。何度やってもダメで、どうしていいかも分からず、悶々とする日々。
ある日渡瀬さんはボロボロのジーンズとロックTシャツを着てステージに立ちました。
用意されていたフリフリの衣装を着ず、勝手に自分が着たい衣装を着てお客さんの前で歌ったんです。
周りの人たちには誰にも事前に知らせなかったので、ファンも事務所の社長もビックリ!!
ステージを降りると社長は「マキ!何してるんだ!!なぜこんなことをしたんだ!!」と激怒。
渡瀬さんは今がチャンスだと思い、社長に思いを打ち明けました。
「私、実はなんかこういうことやりたくないんです」
社長は渡瀬さんの話を聞き、「じゃあデパートの屋上で歌うのをやめてライブハウスにしよう。カラオケで歌うのをやめて生演奏にしよう」と言いました。
信じられないくらい物分かりが良い社長さんですね(笑)
これが大きな転機となります。
アイドルからLINDBERGのボーカルに
社長はバックバンドを探してきてくれました。これで演奏は完璧。
しかし、渡瀬さんの持ち歌はまだ3曲しかなかったので、ライブの時間を埋めるためにレベッカやプリンセスプリンセスのカバーもやっていました。
渡瀬さんはこれまでにずっと歌詞を書き溜めていて、それをバックバンドのメンバー(ギターの平川達也さん、後に渡瀬マキさんと結婚)に見せてみました。すると翌日、平川さんは曲をつけて持ってきてくれました。
渡瀬さんは初めて自分が書いた詩が音楽になったことに感動します。
「私はこれがやりたかったんや!!やっと出会えた!!」
最初は松田聖子さんに憧れてアイドルを目指した渡瀬さんでしたが、他人が敷いたレールに乗り、他人に言われたままに音楽活動することには強いストレスを感じました。
渡瀬さんが本当にやりたかったのは「自分の力で曲を生み出し、お客さんの前で歌うこと」だったんですね。
(リンドバーグの曲のほとんどは渡瀬マキさんが作詞をしています)
そして1988年。渡瀬マキさんが19歳の時。
平川さんが連れてきたメンバーたちとLINDBERGを結成。
初めてのライブの時にはトレードマークだったポニーテールを切り、ショートカットでステージに立ちます。
その姿を見た「正統派アイドル・渡瀬マキ」のファンだった人たちは全員ドン引き。
ライブをするたびにお客さんは少なくなっていき、最終的にゼロになりました。
お客さんたちが求めていたのはアイドルとしての渡瀬マキ。ロックバンドのボーカリストとしての渡瀬マキではなかったんですね。だからファンが離れてしまったんです。
でも、渡瀬さんはお客さんの期待通りに演じるよりもようやく見つけた自分がやりたいことを大切にしました。
「一番は自分が楽しむこと!これがないと前に進めない!」
ゼロからの再出発です。
お客さんが3人~4人しか入らないライブが何度も続きましたが、少しずつ少しずつ新規のお客さんが来てくれるようになりました。
2年後には5千人の前でライブをするようになります。
とは言え、お金の面ではけっこう苦労していたみたいです。
1990年に2ndシングル『今すぐKiss Me』が大ブレイクした直後までは貧乏で、ベースの川添智久さんやドラムの小柳昌法さんは風呂なしのアパートに住んでいて、ライブ会場までの電車賃すらスタッフに借りるほどの極貧生活だったそうです。
1stアルバム『LINDBERG Ⅰ』の歌詞付きブックレットの中では以下のように渡瀬さんは決意表明をしています。
私はアイドルであることに誇りすら覚えます。
なぜなら、ロックミュージシャンたちも、皆、そうなる事を望んでいるからです。ただ、アイドルとロックの違いは、単にセルフコントロールが出来るか、出来ないか、自分で何を創りだせるか、だせないかという事のような気がします。
レベッカも、ハウンド・ドックも、スライダースも、バービーボーイズも、全て私のアイドルです。
そして皆の中に、シャーディーや、プレスリーや、R・ストーンズや、スタイルカウンシルのようなアイドルがいると思います。だから、自分で何かを創りだしたいから、豊島社長に頼んで、歌う事を一年間やめさせてもらったのです。
私の中のジャニスやブロンディー、ジョーン・ジェットに少しでも近づきたいから、私は、私の仲間を見つけ、LINDBERGをつくりました。
まだまだ未完成だけど、私のこんな意識を理解してくれた、下山淳さん、ラフィン・ノーズのポンさん、ナオキさん、三柴江戸蔵さん、そして佐藤ノブさん(ZIGGYプロデューサー)、森重樹一さん、井上龍仁さん、それから、レコーディングに参加して下さった、多くのスタッフの皆さん、ほんとに、ほんとにアリガトウ。
私は今もアイドルです。
ロックミュージシャンと呼ばれる事を望んで、こうしたワケではありません。
ただ、皆でつくりたかったから、ただ歌う事が好きだったから……。
頑張ります。
渡瀬マキさんの経歴が一通り分かったところで、『Looking For A Rainbow』の歌詞の考察に戻りましょう。
渡瀬さんは『Looking For A Rainbow』が収録されたアルバム『LINDBERG Ⅳ』の特典カセットの中で、この曲について少しだけコメントを残しています。
この詩の中に出てくる、これは女の子なんですね、実は。
それは誰かっていうのはいいんやけどな。嘘をつくのが何よりも嫌だったと。
ジャニス・ジョプリンっておるやろ。あの人は嘘をつくのが何よりも嫌やったん。
それだけ言っておきましょう。
『Looking For A Rainbow』に登場する2人の女の子が誰なのかもう分かりましたね。
1人は渡瀬マキさん。
もう1人は「渡瀬マキさんの中にいるジャニス・ジョプリン」です。
Looking For A Rainbowとジャニス・ジョプリン
ジャニス・ジョプリンは天才ロックシンガー。
女性ロックシンガーなら誰もが憧れるロック界のレジェンド。
多くのミュージシャンの歌詞の中にも頻繁に出てきます。歌詞の中でジャニスと書いてあったらこの人です。
ハスキーボイスも印象的ですが、
何よりもすごいのは、勢いのままに声を出しているように聞こえるけど、実はめちゃくちゃ高い歌唱技術を駆使してること。真似したくてもできない天性の歌声。
Janis Joplin『Piece Of My Heart』
ジャニスは1940年代のアメリカ・テキサス州で生まれ育ちました。
アメリカの南部は今でも保守的な地域ですが、当時は今とは比較にならないほど超保守的。
その土地で生まれ、その土地で働き、その土地で結婚し、その土地で子供を育て、その土地で死んでいく。それが当たり前。こういう人生を送ることが人間として正しい生き方だと信じられている土地柄でした。
しかし、ジャニスは違いました。
周囲の人間とは異なる価値観を持ち、ミュージシャンとして自由に生きたいと望んでいたんです。
周囲との違いに思い悩み、酷いイジメも受けました。幼少期から容姿を侮辱され、心に深い傷を負いました。
「自分が属するコミュニティーになじめず、コミュニティーから疎外された女性」という点で『Looking For A Rainbow』に登場する女性と同じです。
またジャニスは大学を中退しているので、この点でも共通しますね。
ジャニスはテキサスを出て、サンフランシスコで才能を開花させましたが、27歳の若さでヘロインのオーバードーズにより亡くなっています。
天才シンガーの純粋な心、そして悲劇的な人生。
渡瀬さんはジャニスを自分自身と重ね合わせて『Looking For A Rainbow』の歌詞に込めているように思います。
渡瀬さんは「私は子供の頃から自分の直感を信じるタイプで、直感でいいなと思うこと、嫌だなと思うこと、理由なく直感で判断して生きてきた」「他人の目や意見に惑わされず、ただひたすら自分の中から湧き出てくる思いのままに行動したらいいと思う」「いつも正直に自分の気持ちを歌詞にしていました」とも語っています。
リンドバーグは"若者の応援歌を歌っているバンド"というイメージを持たれていますが、渡瀬さんは意図的にリスナーを応援している気はまったくなく、ファンの人に「勇気をもらいました!」なんて言われると逆に驚いていたそうです。
嘘つくのが何よりも嫌だった
だからいつも誰よりも傷ついた(She's Just a Rainbow chaser)Looking for a Rainbow
今日もあなたはあの日見た虹を探している
虹がおりる丘 誰にも壊せないプライドをたったひとつ抱いて
純真な人であるほど不完全な社会との間に軋轢を生じやすく、傷つくことが多いと思います。
それでも心を決めて前に進んだジャニス。
『Looking For A Rainbow』は渡瀬さんのパーソナリティに深く根付いている純真性と、同じようにジャニスの中にもある純真性が共鳴して生まれた歌詞のように思えます。
最近の渡瀬マキさん
渡瀬さんは2018年に機能性発声障害を発症したと公表しました。
急に声が出なくなる病気にかかってしまったんですね。
この病気の原因は大きく3つに分けられます。
- 筋緊張性発声障害(のどの筋肉をうまく動かせなくなるのが原因)
- 変性障害(思春期の声変わりが原因)
- 心因性障害(メンタルが原因)
専門医のお話では渡瀬さんの場合は3が疑わしいそうです。薬や手術では治療できないので、声を出す訓練やメンタルケアで地道に治していくしかないとのこと。
その後、渡瀬さんは地道なトレーニングを続け、徐々に声が出せるようになってきました。
2020年12月のインタビューでは以下のように話しています。
コロナ禍の中でもボイストレーニングは継続していました。
一時期、ちょっと壁にぶつかった時があって、病気になった時にセカンド・オピニオンを聞くように、ボイストレーニングでもセカンド・オピニオン、サード・オピニオンをいただこうと決めて、3人の先生に指導していただきました。
いろんな視点で見てもらうことで、自分の弱いところがより明確になるので、最終的にはより前に進めるんですよ。先生方からも登山で頂上を目指す場合にAというルート以外にも、Bというルート、Cというルートなど、いろいろな道があるんだよ、1つだけにこだわることはないよということはおっしゃっていただきました。大切なのは着実に上を目指すこと。今、一歩一歩、進んでいる最中ですね。
なので、「ツアーは途中段階」と言われてしまうかもしれないんですが、そういう部分も含めて、今の私を見てもらうのがいいのかなと思っています。3年前は普通に声を出すことも、誰かと話すこともできなかったわけで、私はここまで来たよ、ここまでできるようになったよというふうに気持ちを切り替えて、ツアーにのぞんでいます。
もともと私は自分を肯定するのが苦手なタイプで、すぐに「私はダメだ」という方向に行きがちなんですが、「ここまで来たよ」って自己肯定することも大切なことだなと思いながら、ステージに立っています。
2020年5月にはインスタグラムに『Looking For A Rainbow』を歌っている動画をアップされています。
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「ここまで来たよ、ここまで出来るようになったよ」
2021年もLINDBERGはライブをしていますし、ますます改善しているようです。
まだ道半ばかもしれないけど、ファンとしては嬉しい限り。
良かった良かった!