Sophie Zelmani『Precious Burden』愛の証

 

すべての人に平等に訪れるもの。

できるだけ目をそらしていたいもの。

それは"死"です。

 

この記事で紹介する曲は、"死"に真正面から向き合っている曲です。
たまには真面目に死について考えてみましょう。

 

Sophie Zelmani 『Precious Burden』

 

鳴っている音は、ピアノ、ギター、声。
とてもシンプルな構成の曲ですね。
1音1音、無駄な音も足りない音もなく、丁寧に奏でられています。

ソフィー・セルマーニはこういったシンプルな曲を書き、囁くように、言葉を大切にするように歌うアーティストです。

 

 

ソフィー・セルマーニは1972年生まれのスウェーデン人シンガーソングライター。

セールス的には大きく成功しているとは言えないアーティストで、母国スウェーデン以外の国での認知度はかなりマイナーです。(スウェーデンではとても有名です)

日本では1990年代にスウェディッシュポップブームが起きた頃に、ちょうど彼女のデビューと重なりました。

デビューアルバム『Sophie Zelmani』がスウェーデンチャートで4位となり、スウェーデンのグラミー賞で最優秀新人賞を受賞したことで日本の音楽メディアでも大きく紹介されました。

日本で少し知られているのはこうした経緯があるためです。タイミングが非常に良かったんですね。

※スウェディッシュポップブームとは名古屋のZIP-FMから始まったトレンドで、ZIP-FMのあるDJがスウェーデンのバンド・カーディガンズのことを個人的に知って、「これすごくいいよ」と番組内で紹介し、ZIP-FMがヘビーローテーションしたことから日本全国に広がったと言われています。
カーディガンズ、クラウドベリージャム、メイヤなどが日本で大ヒットしました。

 

そんな彼女が書いたこの曲『Precious Burden』は、彼女が当時付き合っていた彼氏の父親が亡くなった時に、悲しみの中にいる彼氏の母親の心を想って書いた曲です。

ソフィー自身もこの曲を書く前に父親を亡くしていますし、強く共感するものがあったのだと思います。

 

では、彼女はどんな言葉を歌っているのか、和訳していきましょう。

 

『Precious Burden』
作詞:Sophie Zelmani

the life we shared together
is no life anymore

私たちが分かち合ってきた暮らしは
もう何もなくなってしまった

it's time to praise the memories
and put them
wherever they can grow

今はその思い出を讃える時
それを置いてあげる時
それを育む場所に

so you live in the stars now
you live in the meads

あなたは今、星々の中にいる
あなたは草原の中にいる

I'll spread you with my heart
over the fertile fields

私の心と一緒にあなたが広がっていく
豊かな場所を越えて

the love we gave each other
was the love that we would make

私たちが与え合った愛は
私たちが築き上げてきた愛だった

those years became our lifetime
a lifetime fate would break

その年月は私たちの人生になった
命の宿命は終わらせてしまう

now you're living in the oceans
in the trees and in the air

今、あなたは海の中にいる
木々の中に、空気の中に

it's a precious burden
the cross I've come to bear

それは大切な苦しみ
私が授かった十字架

this burden
is a precious burden
as precious as you

この重荷は
大切な重荷
あなたと同じくらい大切なもの

brought into my world
the world
that's after you

私の世界に入ってきた
あなたのいなくなった世界に

 

 

 

彼女は死を、ただ単に受け入れ難いもの、嫌なものとしては捉えていません。

愛すれば愛するほど別れは苦しいですが、実はそれは自分が人を愛した何よりの証拠であり、貴重な辛さ、大切な重荷なんだと言っています。

心の痛みを、愛する人そのものとして受け入れています。

 

この歌詞を読んで誰かを思い出しましたか?
家族、恋人、親友、恩人、あるいはペット…
もし誰かを思い出したのなら、あなたはその方を深く愛していたのではないでしょうか。

大切な人との永遠の別れは、自分を深い悲しみに追いやります。

共に過ごした時間、これから築いていくはずだった未来。すべてにピリオドが打たれてしまいます。
今までは何も思わなかった空や草木にも愛する人を感じ、その度に悲しみが心に去来します。

しかし、その苦しみが深ければ深いほど、自分がその人を深く愛した証拠でもあります。
だからこそ、その悲しみは貴重なものなんだ、大切にすべきなんだと、ソフィーは言っているように感じます。

 

 

 

高村光太郎の『智恵子抄』という詩集にも同じような心境を綴った一節があります。
高村光太郎が亡き妻・智恵子に送った言葉です。

亡き人に

雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙って咲く

朝風は人のやうに私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎える

今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ

私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる

あなたはまだゐる其処にゐる
あなたは万物となって私に満ちる

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

 

 

 

さて、ここからは少し私の思い出話をさせてください。

「死んだら自分はどうなってしまうんだろう?魂はどこへ行くのか?」と考えたことがあるでしょうか?

たぶん誰でも一度は考えたことあると思います。
私の父は「60歳になるまでそんなこと考えたこともなかった」なんて言っていましたが、そういう人は珍しいでしょうね(笑)

私は小学校2年生くらいの頃から疑問を持っていました。
当時7~8歳だったんですけど、いろいろなことに疑いを持っていました。

「周りの人達は本当に生きているんだろうか?本当はサイボーグじゃないのか?」
「お母さんは僕のお母さんって言ってるけど本当だろうか?」
「そもそも僕は何者なんだ?」
「実は僕はずっと誰かに監視されていて、実は家族もみんな血のつながりのない他人なんじゃないか?」

当時の私は映画『The Truman Show』みたいな世界を想像していたのです。
この映画が1998年に上映された時、「このアイデア、俺の方が先に思いついていたじゃん!! しまった!! 原作を書いて売り込めばよかった!!」と思いました(笑)

いくら考えても疑問の答えが出ないことに耐え切れなくなった私は、台所で夕食の準備をしている母に「お母さんは本当は何者?」と尋ねたことがあります。

母は変な質問をする息子にビックリして「あんた何わけわからんこと言ってるの」と言っていました。

一番仲の良かった友達にも訴えたことがありました。
「この世の中は実は嘘の塊で出来てるかもしれんぞ!!大人の言うことなんて証拠がないことばっかりだ」
「僕だって本当はお前の友達じゃないかもしれんぞ」
というようなことを言い放ちました。

するとその友達は「そんなこと考えたことなかったけど、たしかにそうかもしれん。お前は本当に僕の友達?」と尋ねてきたので、「僕はお前の友達だって言うけど、証拠がないし、信じてもらうの難しいなぁ」と返しました。
そんな会話をした後、2人で微妙な空気になりながら、夕日に染まった道を歩いて帰った覚えがあります。

親友はその10数年後に亡くなってしまったのですが、私たちは生涯親友でいることが出来ました。私の荒唐無稽な話すら真面目に聞いてくれて、親友であり続けてくれた彼に今でも感謝しています。

 

大友克弘原作で漫画やアニメ映画になった『AKIRA』をご存知でしょうか?

『AKIRA』は大友さんのある仮定から生まれたSF作品です。

その仮定とは、
「人間はサルから進化した。サルはもっと下等な生物から。その下等な生物はさらに下等な生物から。それをどんどん辿っていけば、微生物みたいなものが人間にまで進化したことになる。もう滅んでしまったが恐竜だって微生物から進化してきた。ダーウィンの進化論。
つまりこれは、僅か細胞1個しかないような微生物にも人間や恐竜になれるポテンシャルがあるということだ。

この仮定を使って『AKIRA』のストーリーは作られました。
「じゃあ、何かの順番が狂って、人間が遥か未来に持つはずだった力を今持ってしまったらどうなるのか?」

未来に持つべきだった力を現時点で持ってしまった人間が起こす暴走を描いた作品です。
映画でも漫画でもどちらも歴史に残る大名作です。まだ観たことない方は観てみて下さい。

 

ちょっと話が脱線しましたが、この仮定をさらに押し進めてみると、
「最古の微生物は海から生まれた。海を作っているのは水や塩など様々な物質。それらは例外なく原子から成り立っている。原子は陽子、電子、中性子、などの集まり。さらには中間子やニュートリノ、ミューオンなんていうものまである。
その1個1個の素粒子の中に、今生きている私たち自身の記憶があるのではないか?

と考えられます。

つまり、
"宇宙にある全ての物質やエネルギーの中に自分の感情や記憶など全てがある"
ということです。

ということは、
"魂が宿っている体は、自分の魂をまとめておく入れ物に過ぎない"
ということになるわけです。

 

ここで最初の疑問を考えてみましょう。
「死んだら自分はどうなってしまうんだろう?魂はどこへ行くのか?」

この答えは、
「海や山、地面、空気、他人の体や記憶、はたまた宇宙の全てに溶け広がっていく」
ということになりますよね。

私たちの魂は鍋に入れた水と同じです。
低温の時(生きている間)は水の塊のようにはっきりとした形で存在していますが、鍋を熱する(亡くなる)と蒸発して存在が見えなくなります。
目には見えなくなりますが、消えたわけじゃありません。形を変えて存在し続けています。

 

以上のような話は、言っている私も感覚的には全く実感できないんですが、生と死を科学的に考えた時にはこれが1つの答えじゃないかと思うんですよね。

実際にこの説を裏付けるような話は多くあります。
多くの人たちがこれに近い考えや感覚を持っています。

ソフィーは『Precious Burden』の中でこう歌っています。

so you live in the stars now
you live in the meads
now you're living in the oceans
in the trees and in the air

そしてこうも歌っています

I'll spread you with my heart
over the fertile fields

 

『智恵子抄』の中ではこういう文がありましたよね

あなたはまだゐる其処にゐる
あなたは万物となって私に満ちる

 

高校の倫理の授業でも似たようなことを習いましたね。
「世の中は火と水と風と土で出来ている」
みたいなこと言ってた哲学者が何人もいましたよね。素粒子レベルで魂も物質も繋がっていることを示しています。

宮本武蔵は「融通無碍になるためには、自分を天地とひとつにすることだ」と言っています。

仏教の教えにもありますよね。
例えば、般若心経に出てくる「空即是色・色即是空」や「諸行無常」という教えも突き詰めれば同じことです。

士郎正宗原作の『攻殻機動隊』ではそういうテーマが最後にきます。最後に主人公の魂は物質世界であるネットと同化します。

宇宙飛行士たちは、実際に宇宙に行ってみると、
「地球や宇宙と自分たちはひとつなんだ」という悟りにも似た価値観を得るそうです。
宇宙に行ったことのある者にしか分からない感覚らしいです。

 

つまり魂というものは、肉体に宿ってひとつの生命として明確な形を成すこともあれば、万物に溶けて形を成さなくなることもある、あらゆる境界線を越えて自由な存在なのかもしれません。

 

時間を遡り、また私の小学生の頃の話です。

昔、私の家ではメリーという名前のネコを飼っていました。
メリーは元々捨てネコで、子猫の頃にうちの庭に迷いこんできて、ガリガリに痩せていて可哀想だったので飼うことにしました。
家の中に入れてあげて、エサをあげるとすごい勢いでガツガツと食べていました。
メリーは余程安心したのか、うちに来た当初3日間くらいは絶えずゴロゴロとノドを鳴らし続けていました。

それからしばらくした、ある年のお盆のことです。
我が家は兄が幼い時に亡くなっているので、お盆の最初の日に"迎え火"を焚いて死者の魂を煙と共に迎え入れます。
お盆の期間だけは亡くなった人たちとも一緒に過ごしましょうという、日本中どこにでもある仏教の儀式ですね。

その年も例年のように迎え火を焚きました。
「これで1年ぶりに兄ちゃん帰ってきたぞ」なんて家族で話していると、メリーが随分神妙な顔をして仏壇を見ていました。
「おいメリー。どうした?」と声をかけてもメリーは完全に無視です。
メリーは仏壇の方へ歩いて行ったかと思うと、仏壇の前に敷いてある座布団の上に行儀よく座り、じっとお釈迦様を見ていました。
全く目をそらさず、鳴くこともせず、私たちの声にも耳を傾けず、じっと見ていました。

私はアホな子供だったので、そんなメリーにイタズラをしてやろうと思って、メリーをむりやり抱っこして、座布団からおろしたりするのですが、
メリーは「コイツめんどくせぇ」みたいな視線を私に向け、体をくねらせて私の腕からスルッと抜け出すと、再び座布団の上に戻り、仏壇のお釈迦様をじっと見続けていました。

その日は座布団の上から一歩も動かず、1日中見ていました。

翌年以降のお盆も迎え火を焚いたのですが、メリーは特に変わった様子もなく、この年のような行動はとりませんでした。

あの年だけなぜメリーがあのような行動を取ったのか、メリーには何が見えていたのか全くわかりません。真実はメリーのみぞ知るです。
しかし、あの年だけは本当に兄が戻ってきていたように私には思えてなりません。
理屈では説明し難い出来事でしたから。

それから数年後、メリーが病死した時は、私はメリーの亡骸を抱いて仏壇の前に行き「今度はそっちでメリーを宜しく頼むよ」と兄へ祈りました。

 

 

ソフィーの歌、進化論と魂の話、メリーの話、その他様々な体験を根拠に、私はいつも心に持っている思いがあります。

「愛をくれた人なら亡くなっても、いつもどこかで自分を見守っていてくれる」

物質としての身体は使えなくなっても、魂は何らかの形で存在し、いつでもアクセスできるくらい近くにいるような気がするのです。

 

 

今回は取り留めのない生死についての記事を書いてみました。

書いた内容が正しいとか間違っているとか、そんなことはどうでも良いです。正解が分かる人なんていないはずですから。私には分かるなんて言う人がいたら詐欺師ですよ。気をつけて!!(笑)

ただ、たまにはこんなことを誰かと真面目に語り合ってみる機会があってもいいかなと思います。

 

余談ですが、
私が幼い頃持っていた「お母さんやお父さんはホントに僕の親なのか?」という疑問は解消しました。

年を取るにつれ、顔や体型が親に似てきたからです。
あまり望ましい姿じゃないんですけどね(笑)

 

 

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-歌詞の本当の意味